中村雀右衛門 (4代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:歌舞伎役者 四代目 中村 雀右衛門(よだいめ なかむら じゃくえもん、1920年大正9年)8月20日 - 2012年平成24年)2月23日)は、歌舞伎役者映画俳優七代目 大谷 友右衛門(しちだいめ おおたに ともえもん)としても知られる。立女形。本名は青木 清治(あおき きよはる)。

中村雀右衛門」としての屋号京屋定紋京屋結び、替紋は向い雀

大谷友右衛門」としての屋号は明石屋。定紋は丸十、替紋は水仙丸

女形の大御所的存在として晩年まで若々しい美しさと、格調の高さ、芸格の大きさで人気を博した。

人物・来歴

青木清治は六代目大谷友右衛門の次男として1920年(大正9年)東京に生まれた。1927年(昭和2年)1月、東京市村座幼字劇書初』の桜丸で大谷廣太郎を名乗り初舞台を踏む。

1942年(昭和17年)、徴兵をうけて出征。しかしその直後に戦地で、「父・六代目友右衛門が、巡業先の鳥取鳥取地震に遭い、崩壊した劇場の下敷きとなって圧死する」という悲報を受ける。

1946年(昭和21年)、復員。翌年6月、三越劇場源平布引滝』(実盛物語)の小万、『曽我綉侠御所染』(御所五郎蔵)の逢州などで女形・大谷廣太郎として舞台に復帰する。1948年(昭和23年)3月には東京劇場須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の平敦盛ほかで七代目大谷友右衛門襲名した。その後、1950年(昭和25年)に映画俳優に転身、『佐々木小次郎』でデビューを果たす。東宝の専属俳優から、1954年新東宝に移籍し、二枚目スターとして数多くの映画に主演した。

ところが1955年(昭和30年)に映画界を事実上引退、舞台に再復帰したばかりか、活動の場を関西に移す。そして関西歌舞伎の大名跡・中村雀右衛門家に位牌養子として入り、1964年(昭和39年)9月、歌舞伎座祇園祭礼信仰記・金閣寺』の雪姫ほかで四代目中村雀右衛門を襲名した。以降格調の高い芸風で女形の第一人者となり、六代目中村歌右衛門亡きあとは事実上の最高峰を極めた。

大谷友右衛門はいわゆる江戸の大名跡のひとつで、通常はそれ自体が止め名となるが、七代目は友右衛門襲名後に四代目雀右衛門を継いでいる。これは、徴兵で入隊し第二次世界大戦従軍中に戦死した、三代目雀右衛門の長男・中村景章(終戦後「五代目中村芝雀」を追贈)が、七代目友右衛門の無二の親友だった関係によるもの。友右衛門も景章に2年遅れて徴兵され、過酷な南方の戦地を6年間も転戦したが、こちらは幸運にも生きて再び祖国の地を踏むことができた。

終戦後、復員してきた懐かしい友右衛門の姿を見た景章の母(三代目雀右衛門の未亡人)は、そこに何か運命的なものを感じ、以後は友右衛門を我が子同然に可愛がった。そして、「息子が果たせなかった『雀右衛門』襲名は、ぜひ親友だったあなたにしてもらいたい」と、再三にわたって懇願したのである。大谷友右衛門の明石屋と中村雀右衛門の京屋は、姻戚関係はおろか子弟関係の接点すらない、系統のまったく異なる家系で、友右衛門の雀右衛門襲名は、故人の無念の想いをその親友に託すという異色の養子縁組となった。

2010年(平成22年)1月19日、歌舞伎座さよなら公演 壽初春大歌舞伎『春の寿』の女帝役で1日だけ出演したのが最後の舞台となった。

2012年(平成24年)2月23日肺炎のため死去[1][2][3]。91歳の大往生だった。

2012年3月9日の閣議において、従三位を追贈することが決まる[4]

家族・親族

妻・晃子は七代目松本幸四郎の娘。そのため、十一代目市川團十郎八代目松本幸四郎二代目尾上松緑の三兄弟とは義兄弟の間柄だった。

自身の息子二人も歌舞伎役者。長男は明石屋を継承し、八代目大谷友右衛門として主に立役を務める。次男は京屋の御曹司として女形で活躍する七代目中村芝雀である。

受賞等

各賞

栄典


顕職

その他

主な出演作

歌舞伎

当たり役といわれるのは次のとおり:

映画

関連書籍

著作
  • 女形無限 白水社。1998年3月発行。ISBN 4560035598
  • 私事――死んだつもりで生きている 岩波書店。2005年1月発行。ISBN 4000257552
その他

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:日本芸術院賞
  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite news
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news