中国の貨幣制度史

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旅行家Ernst von Hesse-Wartegg著"China und Japan"より
中国古代貨幣図

中国の貨幣制度史(ちゅうごくのかへいせいどし)では中国の貨幣制度の歴史について記述する。

概要

前後漢・唐王朝の経済面での支配統制は、一般に考えられているほど強固ではなかったこともあり、早い時代においては貨幣価値が全国的に統一されたことはなく、貨幣の価値・形態については地域的な格差が大きい[1]。幣制統制のための諸王朝の努力とは別に、銅鉱山の開発状況、銀の大量流入など、その時々における貨幣素材の利用可能性にもとづき、民間部門の自律的な対応を軸として発展した。銅銭は古くから利用されたが、鋳銭を国家政策として行ったのは、漢代以前と生産技術の改良で銅の生産量が伸びた北宋時代以降である。また、唐末から元の時代にかけてイスラム銀が流入したほか、紙幣も登場した。明代には宝鈔(紙幣)以外の金属貨幣の流通を禁じる不換紙幣による通貨体制を導入したが通貨管理が不十分なため定着せず、国際交易を中心に日本ボリビアの銀なども利用された[2]

貨幣鋳造以前

では、南方の海から入手した希少な子安貝の貝殻を貨幣としていた。このような貨幣を貝貨という。現在、といった漢字に貝が含まれるのは、当時貝貨が使われていたためである。貝貨は青銅貨が広まる春秋時代まで使われたとされる。

周代の後期に青銅器の大量生産が可能となり、需要の高い農具(銅鋤)や武器(銅剣)などの青銅器が、農民や兵士に徐々に普及し出すと、それ自体の使用価値(実用性+呪術性+保存性)を担保に、物々交換の基準・物の価値を計る尺度として、即ち青銅器が貨幣として、使われるようになった。

やがて、交換価値の確立したそれらを、持ち運びに便利なよう、実用性を失うも、小型軽量化したものが「布貨」や「刀貨」となっていく。さらには、やがて、実用性だけでなく、元々の青銅器との形状の類似性が無くとも、交換価値を有し得ることに気づいた人々は、さらなる(鋳造や携帯における)利便性を求めて、環銭を生み出すことになる。

貨幣鋳造の開始

春秋時代に入ると、青銅を鋳造して貨幣とするようになった。春秋戦国時代に使われた青銅貨幣は大きく分けて、以下の4種類がある。

布貨(ふか)
(鏟)の形をしており、で用いられた。布銭、布幣ともいう。
刀貨(とうか)
包丁のような形をしており、中山国で用いられた。刀銭ともいう。
蟻鼻銭(ぎびせん)
貝貨のような形をしており、で用いられた。また楚は金が多く採れる土地だったため、金貨の発見例が多い。
環銭(かんせん)
円板の中心に丸あるいは正方形の穴を空けた形をしている。戦国時代の中期以降に用いられ、などで用いられた。

また、この頃から金貨や銀貨を高額の支払に用いる例が増えたとみられる。

半両銭と五銖銭

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五銖銭(前漢)

始皇帝が中国をはじめて統一すると、各地でばらばらの貨幣が使われていた状況を改め、秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一することになった。秦で用いていた半両銭という環銭は中心の穴が正方形であった。以降東アジアでは基本的に銭貨というと、この円形で中心の穴が正方形のものとなった。半両銭には、半両という漢字が刻まれている。半両の両とは、重さの単位である。当時、1両は24銖(しゅ、1銖は約0.67グラム)であったので、半両銭の重さは12銖、すなわち約8グラムとなる。金貨は1斤(20両)と1両(約16グラム)を単位として楕円形と方形の物が造られ、銀貨は1流(8両)を単位とする物が造られた。

前漢呂后の時代、秦の半両銭が重く不便なため軽薄な銭貨を造るようにした。これは、楡莢銭と呼ばれ、その重さは1銖のものもあった。文帝代になると銭の私鋳を禁ずる法律を廃止したが、これにより資産家による大量の軽薄な私鋳銭の濫造が行われ、銭の価値は暴落した。併せて、文帝は四銖銭の鋳造を開始した。このとき、呉王劉濞鄧通が四銖銭を大量に鋳造し、銭貨の流通が拡大した。紀元前175年に書かれた賈誼の上奏文によれば、当時四銖半両(四銖銭の半両銭)100銭の重さが1斤16銖(=400銖)が基準とされ、それより軽い場合にはそれに何枚か足して1斤16銖分にしてそれを100銭分としたこと、反対にそれよりも重い場合には100枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれている(『漢書』食貨志)。

景帝は、再び政府以外の者が銭を鋳造することを禁じたが、この禁令を犯して銭を鋳造する者は後を絶たなかった。なお、武帝以前の漢の貨幣は、その重さが半両(12銖)に満たなくとも半両と刻まれていた。そのため、これら前漢の銭も重さにかかわらず半両銭という。

武帝は、半両銭の鋳造をやめ、新たに五銖銭を鋳造し始めた。さらに、銭貨の私鋳を厳しく取り締まったので、ようやく民間による鋳造が収まることとなった。五銖銭には、五銖という文字が刻まれ、重さもその名の通り5銖あった。五銖銭はその後一時期を除いて、初頭まで用いられ続ける。

前漢から簒奪して、を建国した王莽は、春秋戦国時代に用いられていた刀貨と円貨をくっ付けた形の契刀・錯刀を貨幣として造った。さらに9年に契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁止ずると共に、復古調の布貨、少額貨幣の銭貨、高額貨幣の宝貨を発行した。宝貨には、下のように様々な材質のものが使われた。

  1. 金貨(1種類、1斤(約320グラム)、銭10000文)
  2. 銀貨(2種類、1流(約128グラム)、銀・銭1000文、朱堤銀・銭1580文)
  3. 亀貨(甲羅、官有の祭器、4種類:元亀・長さ1尺2寸以上・2160文、公亀・9寸以上・500文、侯亀・7寸以上・300文、子亀・5寸以上・100文)
  4. 貝貨(貝殻、5種類)
  5. 布貨(鋤形の青銅貨幣、10種類:重量15銖~1両(24銖)、長さ1寸5分~2寸4分、額面100~1000文、それぞれ10段階)
  6. 銭貨(重量が12銖以下の円形青銅貨幣、6種類)

しかし、五銖銭に比べて不便であったため、民衆は五銖銭を使い続け、さらには五銖銭を私鋳した。王莽銭は僅か4年で廃止され新たに「貨布」「貨泉」が発行された。前者は鏟の形状を模した青銅製の重量25銖の布銭で「貨布」の銘を持ち、後者は円形方孔、重量5銖の銅銭で「貨泉」の銘を持つ。比価は「貨布1:貨泉25」とされた。後者は使用されたものの、前者は使用拒否者に対して刑死や全財産没収のうえ奴婢とする禁令が出され、多数処罰されても全く収蔵されないなど忌避された。日本でも弥生時代の遺跡から出土している。

結局、新が滅んで後漢が成立すると、光武帝40年建武16年)に王莽銭を廃止して五銖銭の制を復活させた。後漢代に入ると金貨による高額決済の例は乏しくなり、主に下賜品や贈答で用いられるようになる。

後漢末の戦乱以降は貨幣の品質が急落した。魏晋南北朝時代を通じて銭貨の鋳造量は減って私鋳銭が増え、それと共に銭貨はますます小さく薄くなっていった。このように、魏晋南北朝時代の銭貨で見るべきものは少ないが、武帝は青銅でなく、鉄銭を鋳造させて銭100枚の重さを1斤2両(432銖)と定めた(『泉志』)が経済は混乱した。また北魏では金貨・銀貨が用いられた。また、大きめの銭を鋳造し、五銖銭10枚分として通用させるということも起きた。

こうした状況下で各政権が様々な基準の銭貨を発行したために、重さによって貨幣価値を計ることが行われなくなり、代わりに銭貨の枚数もしくは一定数量を1組とした銭さし(銭繦/銭貫)の数によってやり取りされるようになる。この時期になどの通貨単位が初めて出現したと考えられている。

開元通宝とその模倣品

戦乱の中から中国を統一したは、貨幣の統一を試みた。隋が鋳造した五銖銭でないものは没収されるようになり、この貨幣の統一は比較的成功した。しかし、隋はすぐに滅び、各地で再び戦乱が起き、その際には、粗悪な銭貨が流通するようになった。隋末の混乱を収めたは、当時流通していた銭貨が粗悪であることから、新しい貨幣を発行した。

それが開元通宝であり、唐代の間ずっと開元通宝が鋳造された。開元通宝の重さは、2.4銖であった。尤も唐の1銖は1.55グラムであるから、開元通宝は3.73グラムとなり、3グラム強であった前漢の五銖銭よりやや重くなる。ここで注目したいのが、銭貨の銘は半両銭にせよ五銖銭にせよ重さ(ただし、必ずしも実際の重さではないが)が刻まれていたが、開元通宝にはただ開元通宝とだけ刻まれたことである。これ以降、銭貨には重さを書かなくなった。また、開元通宝は唐の周辺諸国にも影響を与えた。たとえば、日本の和同開珎(珎は宝の異体字)も唐の開元通宝を真似て作ったものである。唐は、銅鉱の付近に開元通宝の鋳造所を作っていた。粛宗時代の宰相・第五琦は、乾元重宝・重輪銭の鋳造を開始した。この2種類の貨幣は、開元通宝の約2倍しかなかったが、その価値は乾元重宝で開元通宝の10倍、重輪銭で50倍として通用させた。こうした高額貨幣の流通量増加により、インフレーションが発生し、人々は苦しんだ。結局、代宗の頃には、乾元重宝も重輪銭も開元通宝と同じ価値とされた。そうなると、開元通宝より重い乾元重宝・重輪銭は用いられなくなった。

五代十国時代には、開元通宝のような銅銭が鋳造されたほか、・蜀(前蜀後蜀)では鉄銭も鋳造された。

北宋の創始者である趙匡胤は、開元通宝とほぼ同形・同重量の宋元通宝の鋳造を開始した。それとともに、各地の粗悪な銭貨の使用を禁止した。もっとも、鉄銭や唐以来の開元通宝はそのまま使用し続けることが許された(むしろ四川陝西では西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられ、代わりに鉄銭が強制的に流通させられた)。趙匡胤の後を継いだ太宗は、太平通宝・淳化通宝を鋳造した。淳化はこの当時使われていた年号であり、以降元号が変わるごとに、銭貨の名前とその銭貨に刻まれる文字が変わった。以来が滅亡するまで、中国王朝の発行する銭貨は、基本的に「元号名+通宝(あるいは元宝)」と名づけられ、鋳られた銭貨にその名を刻まれることとなった。北宋は、池州・饒州・江州・建州などに銅銭の鋳造所を、卭州・嘉州・興州に鉄銭の鋳造所を設けた。北宋・南宋を通じての銭貨(宋銭)の鋳造量は歴代の王朝の中で最高額となった。また日本をはじめとするアジアの国々が信用価値が高い中国の銅銭を輸入して自国で通用させた。

紙幣の成立

唐代から飛銭と呼ばれる役所発行の手形が用いられていたが、北宋になると商人によって交子会子と呼ばれる手形が使われるようになった。特に銅銭に比べて重く銭価の低い鉄銭流通が強制された四川・陝西では、全国一律で同じ価値を持つ交子は他地域との交易には欠かせないものとなった。交子は仁宗の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。これが世界で最初の紙幣である。しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生した。また、当時は専売制度が行われており、生産地における専売品との引き換えに用いた茶引塩引と呼ばれる手形も紙幣の代用品として用いられた。は、北宋・の銭貨を用いていたが、海陵王の治世で、交鈔と呼ばれる紙幣が発行された。しかし、これも大量発行されてインフレーションが発生した。なお、これらの紙幣は使用できる年限が定まっており、期限を過ぎるとただの紙切れと化した(期限前に役所に対して手数料を払う事で、新しい紙幣との交換は可能であった)。

元のクビライが即位した1260年には中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という交鈔が発行された。これは、以前の紙幣と違ってその有効期限を持たなかった。また、交鈔は補助貨幣ではなく、基本貨幣とされたのである。交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されている兌換通貨であり、元は決済上の利便性から紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔が大量発行されてインフレーションが発生した。

銀貨の普及

1287年には中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔の発行と旧紙幣の回収が行われ、紙幣価値は一旦安定に向かった。しかし、絶えず紙幣が大量発行されてインフレーションを引き起こし、金銀との兌換も中止された。交鈔の価値を維持する為、生活必需品である塩の専売制と結び付け塩の売買には交鈔を用いなければならないと定めた。

では宝鈔という紙幣と銅銭を併用していた。また、金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。宝鈔は金銀と兌換できず価値は徐々に下落したために、銀が通貨として用いられるようになっていった。金銀の貨幣利用を禁止していた政府も民間の流れに沿い、銀による納税を認めた。代も基本的に明代と同じような通貨政策がとられた。

近代的通貨制度へ

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壹圓銀貨、孫文像幣、1933年

テンプレート:Main 明清朝では銀が秤量貨幣として使用されたが、清末、広東造幣廠が建設され、本位銀貨「光緒元宝」が発行された。これを銀元という。辛亥革命後、1933年には「廃両改元」が行われ、秤量貨幣である銀両の流通は廃止され、新たに1円銀貨「孫文像幣」が発行された。しかし、1935年世界恐慌を受けて蒋介石政権は銀兌換を停止、不換紙幣である法幣を導入した。日中戦争激化により法幣の価値は下落を続け、戦後の1948年、新たに兌換紙幣「金円券」を発行したが、国共内戦の戦費捻出のため、正貨準備の裏付け無しで増発されて悪性インフレを引き起こし、共産党政権樹立により新たに発行された人民幣と1:100000の比率で交換された。

現在

中華人民共和国では紙幣と硬貨からなる人民元(元)が使われている。全体的に紙幣の比率が多い。また、台湾中華民国)ではニュー台湾ドルが使われている。 テンプレート:Main

参考文献・注釈

  1. 「中国における幣制の展開」日本銀行金融研究所『金融研究』(第15巻第3号,1996年8月)
  2. 「比較経済史からみた三貨制の意義と特色」鹿野嘉昭『同志社大学経済学論叢』第57巻第4号)からこの項目を記載

外部リンク

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