レトヴィザン (戦艦)
ファイル:Retvizan1902Kronshtadt.jpg 写真は左舷方向から撮られた「レトヴィザン」。 | |
ファイル:Retvizan.jpg 写真は艦尾方向から撮られた「レトヴィザン」。 | |
艦歴 | |
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発注 | クランプ造船所 |
起工 | 1898年12月 |
進水 | 1900年10月23日 |
就役 | 1901年10月に完成、公試開始、 1902年3月25日ロシア海軍に編入。 |
除籍 | 1923年9月20日 |
その後 | 1924年7月25日撃沈処分 |
前級 | ポチョムキン |
後級 | ツェサレーヴィチ |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:12,700トン |
全長 | 117.85m |
水線長 | 116.5m |
全幅 | 22.0m |
吃水 | 常備:7.6m 満載:7.92m |
機関 | ニクローズ式石炭専焼水管缶24基 +3段膨張式3気筒レシプロ機関2基2軸推進 |
最大出力 | 16,000馬力(公試時:17,110馬力) |
最大速力 | 17ノット(公試時:18ノット) |
航続性能 | 10ノット/8,000海里(満載) |
燃料 | 石炭:2,000トン(満載) |
乗員 | 738名 |
兵装 | Pattern 1895 30.5cm(40口径)連装砲2基 Pattern 1892 15.2cm(45口径)単装速射砲12基 Pattern 1892 7.5cm(50口径)単装速射砲20基 オチキス 4.7cm(43.5口径)単装機砲24基 オチキス 3.7cm(22.8口径)5連装機関砲8基 マキシム 7.62mm機銃単装2丁 38.1cm水中魚雷発射管単装2基、同水上魚雷発射管単装4基 |
装甲(クルップ鋼) | 舷側:229mm(水線中央部)、152mm(船首楼側面部)、127mm(水線下部)、51mm(艦首・艦尾部) 甲板:51mm(主甲板)、63mm(主甲板傾斜部) 主砲塔:229mm(前盾・側盾)、51mm(天蓋) 主砲バーベット:203mm(最厚部) 副砲ケースメイト:127mm(最厚部) 司令塔:254mm(前盾・側盾)、-mm(天蓋) |
レトヴィザン[1]、レトヴィザーン[2](ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン)は、ロシア帝国海軍の戦艦である。後に日本海軍の戦艦「肥前」となった。
目次
概要
本級の計画直前、大日本帝国海軍が相次いで12インチ砲戦艦をイギリスより購入していたことから、戦力的にロシア帝国海軍は対抗策を必要としていた。太平洋艦隊向けに建造した10インチ砲戦艦「ペレスヴェート級」では火力不足との判断から、1898年にロシア海軍初の12インチ砲を持ち、排水量は太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された前弩級戦艦2隻が外国に発注された。これがフランスのラ・セーヌ造船所に発注された「ツェサレーヴィチ」と、そして、アメリカのクランプ造船所(William Cramp and Sons)に発注され、「レトヴィザン」と命名された本艦である。
艦形
本艦の船体形状は平甲板型船体で太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された。
水線下に衝角(ラム)を持つ垂直に切り立った艦首から艦首甲板上に円筒形の30.5cm連装主砲塔が1基、その背後に司令塔を組み込んだ艦橋からミリタリーマストが立つ。ミリタリーマストとはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm~47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置した物である。これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりである。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦に多く用いられた様式であった。
本艦のミリタリーマストは内部に階段を内蔵した円筒状となっており、頂部と中部に計2段の見張り台が設けられた。前部ミリタリー・マストの背後には等間隔に並んだ3本煙突が立ち、その周囲は艦載艇置き場となっており、船体中央部に片舷1基ずつ設けられたグース・ネック(鴨の首)型クレーン計2基により運用された。副砲の15cm速射砲は上部構造物の四隅に1基ずつと舷側中央部に4基ずつで片舷6基で計12基が配置された。船体後部には後部ミリタリー・マストが立ち、その後ろの後部甲板上に30.5cm連装主砲塔が後向きに1基配置された。水雷艇迎撃用の7.5cm速射砲は艦首に側面に1基ずつ、船体中央部に4基ずつ、艦尾側に2基ずつと煙突の側面に2基ずつと後部艦橋の側面に1基ずつの片舷10基で計20基を配置した。この配置により艦首尾線方向に最大30.5cm砲2門・15.2cm砲2門・7.5cm砲4門が指向でき、左右方向には最大30.5cm砲4門・15.2cm砲6門・7.5cm砲10門が指向でき強力な火力を誇っていた。
武装
主砲
主砲は前級に引き続き「Pattern 1895 30.5cm(40口径)砲」を採用した。その性能は331.7kgの砲弾を、仰角15度で14,640mまで到達させ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲をロシア国産の新設計の連装砲塔に収め、砲弾は1基ごとに140発を弾薬庫に収めた。砲塔の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが平時は3分に2発の発射が可能であった。
その他の備砲・水雷兵装
副砲には「Pattern 1892 15.2cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は41.4kgの砲弾を、仰角20度で11,520mまで届かせられ、射程5,490mで43mmの装甲を貫通できた。この砲の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分3発の設計であった。
他に対水雷艇迎撃用にフランスのカネー社の7.5cm砲をライセンス生産した「Pattern 1892 7.5cm(50口径)速射砲」を採用した。その性能は4.9kgの砲弾を、仰角20度で7,869mまで届かせられた。この砲を単装砲架で船体舷側ケースメイト(砲郭)部に艦首4基・艦尾3基と、上部構造物の15cm速射砲の間に3基の片舷10基ずつ計20基を配置した。俯仰能力は仰角20度、俯角15度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分12発であった。
他に近接戦闘用にフランスのカネー社からライセンス生産したオチキス社の4.7cm砲をライセンス生産した「Pattern 1873 4.7cm(43.5口径)速射砲」を採用した。その性能は1.5kgの砲弾を仰角10度で4,575mまで届かせられた。この砲を単装砲架でミリタリー・マスト1本あたり4基で前後で8基を、艦上構造物の前後に8基ずつの計24基を配置した。俯仰能力は仰角25度・俯角23度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分50発であった。その他にマキシム 7.62mm機関銃を船橋に2丁搭載された。
対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管を単装で、艦首と艦尾に1門ずつと舷側部に片舷1基ずつで計4基。38.1cm水中魚雷発射管を単装で、主砲塔側面舷側部に片舷1基ずつで計2基装備した。予備魚雷は17本が艦内に搭載された。
艦歴
「レトヴィザン」時代
1898年12月起工。1900年10月23日進水。1902年3月25日竣工。
1902年5月13日にバルト海へ向けて出港し、途中給炭のためシェルブールに立ち寄った。シェルブール出港後の6月14日にボイラー管が破裂する事故があった。6人がやけどを負い、うち3人は致命傷であった。到着後レトヴィザンには無線装置が取り付けられ、8月にはレバルで艦観式に参加。1902年11月13日に戦艦ポベーダ、巡洋艦ジアーナ、パルラーダ、ボガトィーリとともに極東へ向けて出発し、1903年5月4日にパルラーダのみを伴って旅順に到着した[3]。
日露戦争
1904年2月8日から9日の夜、日本の第一、第二、第三駆逐隊が旅順港外に停泊中のロシア艦隊を襲撃した(旅順口攻撃)。この攻撃によりレトヴィザンなど3隻に魚雷が命中し、レトヴィザンでは左舷水雷貯蔵庫に大穴があき[4]、5名が死亡して電力が失われた。浸水により11度傾斜したが、注水により傾斜は5度まで回復した。レトヴィザンは港内に向かったが、その際港の入り口で座礁し、3月8日まで離礁できなかった。
2月24日、日本軍は第一回旅順口閉塞作戦を実行した。この際レトヴィザンは日本の駆逐艦や閉塞船を砲撃している[5]。3月22日、日本の戦艦富士、八島が旅順港内を砲撃すると、港内のレトヴィザンなどは応射した[6]。レトヴィザンの修理は6月3日に完了したが、利用できるドックが無かったため修理には囲い堰が用いられた。
6月23日、ヴィリゲリム・ヴィトゲフト提督率はレトヴィザンを含む艦隊を率いて出撃したが、日本艦隊が現れると勝ち目が無いと判断して旅順に引き返した[7]。7月27日、レトヴィザンと巡洋艦パルラーダ、バヤーン、アスコリドが出撃して大河湾へ向かい、日本軍陣地を砲撃[8]。日本巡洋艦日進、春日からの砲撃を受けると退却したが、その際レトヴィザンは応戦し日進が無電室に被弾している[9]。
8月9日、日本の海軍陸戦重砲隊による砲撃で港内で7発被弾し、浸水により左舷に傾斜した他戦死者1名を出した[10]。また艦長シチェンスノーヴィチ大佐が負傷し、レトヴィザンに搭載するための6インチ方を載せて隣にとまっていた船が沈んだ[11]。
8月10日、黄海海戦に参加、損傷を受けた本艦は、武装の一部(15.2cm速射砲2基・7.5cm速射砲2基・4.7cm単装機砲2基・3.7cm5連装ガトリング砲6基)を陸上陣地に据え付けた。
1904年12月6日、旅順港内で日本陸軍による28cm榴弾砲の曲射砲撃により大破着底した。
1905年1月1日に捕獲され、5月29日から9月22日まで浮揚作業を実施、9月24日、日本海軍に編入され、旧国名「肥前国」にちなんで「肥前」と命名し一等戦艦に類別した。11月27日、佐世保に到着し修理に着手。12月12日、等級を廃止し戦艦に類別。1908年11月、佐世保工廠における修理が完了した。
「肥前」時代
なお、「レトヴィザン」が日本海軍に鹵獲され「肥前」となった時に日本陸軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃を受けて旅順港内に着底した際に受けた破口は応急処置により埋められたものの、内地に回航してから船体の本格修理を行う際に数々の改良が加えられた。
外観上の特徴としては前後のミリタリー・マストを簡素な単脚式のマストへと改造し、吸排気2重構造の3本煙突をイギリス式の簡素な物へと3本とも交換されるなど軽量化された。武装面においては主砲と副砲はロシア艦時代のままとして、艦上構造物の簡素化に伴い兵装の多くをイギリス式に換装された。7.5cm速射砲は「アームストロング 7.6cm(40口径)砲」14基、4.7cm機砲は山内式4.7cm速射砲4基へと更新され、搭載数の減少に伴って開口部は閉鎖された。魚雷兵装も38.1cm水上魚雷発射管は全撤去され、水中魚雷発射管は38.1cmから45.7cmへと大口径化されて単装2門を装備した。
第一次世界大戦
第一次世界大戦ではハワイ、アメリカ西海岸、メキシコ西岸などで活動し、ガラパゴス島から日本に帰還途中で主ボイラーが破裂。尼港事件の際には大正3年7月28日~大正9年10月15日の間はシベリア出兵の護衛と沿海州の警備に当たった。
1921年9月1日一等海防艦となり、1923年9月20日除籍。
1924年7月25日豊後水道で連合艦隊射撃訓練の標的艦として沈められた。
艦長
- 日本海軍
- 釜屋忠道 大佐:1908年7月31日 - 12月10日
- 築山清智 大佐:1908年12月10日 - 1909年2月14日
- 久保田彦七 大佐:1909年2月14日 - 5月22日
- 石田一郎 大佐:1909年5月22日 - 1910年4月9日
- 久保田彦七 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
- 依田光二 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- (兼)田所広海 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月1日
- 川浪安勝 大佐:1913年3月7日 -
- 中島資朋 大佐:1915年5月20日 - 1916年12月1日
- 勝木源次郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 匝瑳胤次 大佐:1918年11月10日 - 1920年11月20日
- 小泉親治 大佐:1920年11月20日 - 1922年12月1日
脚注
参考文献
- 「世界の艦船増刊第38集 フランス戦艦史」(海人社)
- 「世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史」(海人社)
- 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
- 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
- 「Russian & Soviet BATTLESHIPS」(Naval Institute Press)
- 「Jane's Fighting Ships Of World War I」(Jane)
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- 『官報』