モブツ・セセ・セコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年9月15日 (日) 21:58時点におけるRJANKA (トーク)による版 (内戦激化)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
モブツ・セセ・セコ
Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga
ファイル:Mobutu.jpg
<small/></center>

テンプレート:!-


テンプレート:!-

任期 1965年11月24日1997年6月17日

出生 テンプレート:生年月日と年齢
25pxベルギー領コンゴリサラ
死去 テンプレート:死亡年月日と没年齢
テンプレート:Flagicon モロッコ
ラバト

テンプレート:!-

政党 革命人民運動

テンプレート:!-

配偶者 マリー・アントワネット・モブツ

テンプレート:!-

モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガMobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa za Banga 1930年10月14日 - 1997年9月7日)は ザイール(現コンゴ民主共和国)の軍人政治家。同国の第2代大統領(在任期間1965年から1997年)。

生い立ち

1930年10月14日モブツは、ベルギー領コンゴのリサラテンプレート:仮リンクの家庭に生まれた。当時の名前はジョゼフ=デジレ・モブツ (Joseph-Désiré Mobutu) である。

コンゴ独立

1960年6月にベルギーからコンゴ共和国が独立すると、モブツは国軍参謀総長に就任した。その後、カタンガ州をめぐる国内の状況の悪化に伴い、1960年9月コンゴ動乱初期のクーデターで実権を掌握。ジョセフ・カサブブ大統領と手を結び、パトリス・ルムンバ首相逮捕1961年政権を文民に移譲する。

大統領就任

1965年に再度クーデターを実行し、政権を掌握し大統領に就任。国名を「コンゴ」から「ザイール」に、首都のフランス語の呼び名の「レオポルドヴィル」を「キンシャサ」に改称するなど「ザイール化政策」を推進する。1972年に名前を「モブツ・セセ・セコ」に改名。対外的には、東西冷戦を利用して、アフリカにおける反共の砦を以て任じ、その見返りに西側先進国からの支援金を一手に引き受けて、そのほとんどを着服した。またその権力基盤は、鉱山会社の利益に支えられていたが、それはスイスケイマン諸島キプロスといった国々の秘密銀行口座が容易にした。それに加えて、世界銀行IMFの資金もモブツを支える事になった。その融資や援助が貧困層への助けにならず、対外債務の泥沼化に拍車をかけたからである。[1]

モブツの不正蓄財は総額およそ50億ドルといわれ、西欧諸国、西アフリカ、モロッコブラジルなどに、豪華別荘や古城・豪邸を保有し、隠し銀行口座を設けた。モブツに私物化された政権を揶揄する言葉として、「モブツの個人資産は、ザイール共和国の対外債務に等しい」といわれた。国内では、中央アフリカとの北部国境付近のバドリテ高原に自家用飛行場つきの巨大な宮殿を建設した。この宮殿は「ジャングルヴェルサイユ宮殿」と呼ばれ、後年モブツが失脚間際に逃げ込むことになる。またカウェレにも豪華な中国風の住宅を所有していた[2]

全体主義民族主義との性格を併せ持つモブツの思想はモブツ主義と呼ばれ、ブラックパンサー党の指導者であるヒューイ・P・ニュートンや歴史家のE・H・カーらはモブツをファシストと定義している。

内戦激化

1996年8月に前立腺癌を患ってスイスの病院に入院したあたりから事態は変化していく。ザイール国内の不安定要因であった東部国境付近のフツツチの民族紛争は、遂にザイール領内のツチ系最大勢力「バニャムレンゲ」の大蜂起に発展した。10月にはそれに乗じて人民革命党のローラン・カビラが反政府勢力を結集してコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) を結成、ツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始した。

武装蜂起当時、モブツは南フランスで静養中で1997年5月まで帰国せず、AFDL軍は、ザイール全土の約4分の3を制圧した。AFDLがキンシャサに迫ったので自国民の保護を念頭にアメリカ、フランス、イギリスや、国連などが調停工作に乗り出す。

亡命・死去

1997年5月7日から8日にガボンで、ザイール情勢を協議するため「中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議」が開催され、モブツも出席した。モブツは、本会議で、健康上の理由で次期大統領選挙には出馬しないことを確認する声明を発表した。

5月16日、キンシャサに戻ったモブツは突然北部のバドリテにある宮殿に逃れ、国会議長モンセングォ司教率いる内閣に権力が移譲され、モブツは一切国政に関与しない旨の発表をする。5月17日AFDL軍はキンシャサに入城した。カビラ議長はルブンバシから「コンゴ民主共和国」の樹立と、国家元首就任を宣言した。

5月18日にモブツはモロッコのラバトへ向けて出国し、1997年9月7日に亡命先のモロッコで死去した。66歳。

出典

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ジョセフ・カサブブ
コンゴ民主共和国大統領 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ザイール共和国大統領
1971年以前はコンゴ民主共和国
第2代:1965 - 1997 |style="width:30%"|次代:
ローラン・カビラ
コンゴ民主共和国大統領 テンプレート:S-dip

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ハイレ・セラシエ1世 |style="width:40%; text-align:center"|アフリカ統一機構議長
第6代:1967 - 1968 |style="width:30%"|次代:
フアリ・ブメディエンテンプレート:Enlink

  1. 転送 Template:End

テンプレート:コンゴ民主共和国の大統領

  1. スティグリッツの経済教室 p-99
  2. 中国風の庭にジャンプ台付きプール、今は亡き独裁者の「栄華」の跡 コンゴ民主共和国(AFP.BB.News.2010年12月28日)