マン・レイ
マン・レイ(Man Ray, 本名:エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudnitsky, Эммануэль Рудзицкий, 1890年8月27日 - 1976年11月18日)は、アメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。
生涯と作品
- 1890年、ペンシルベニア州、フィラデルフィアに、ユダヤ系ウクライナ人の父、ユダヤ系ベラルーシ人の母のもとに生まれる。
- 1897年、一家はニューヨーク市のブルックリン地区に引っ越す。
- 1904年、高校に入学し、製図を学ぶ。卒業後は出版社で図案を作ることで生活を立てながら画廊に出入りするなどして画家として活動する。
- 1915年、フランスの詩人であるアドン・ラクロアと結婚し、この頃から本名のエマニュエル・ラドニツキーではなく(本名のEmmanuel Radnitzkyを縮めた)マン・レイと名乗るようになる。自作の絵を写すため写真機を購入。マルセル・デュシャンと出会い、のちにニューヨーク・ダダとよばれる運動を、ヨーロッパのダダと同時並行的に進めることとなる(1921年、デュシャンとレイにより「ニューヨーク・ダダ」誌が創刊されている)。10月、絵画とドローイングによる最初の個展を開催。
- 1921年、7月、エコール・ド・パリの時代であったパリに渡り、モンパルナスに住みながら本格的に写真に傾倒する。同年6月にパリに戻っていた親友のデュシャンの紹介によって、パリのダダイストたちと交友を始める。パリに渡って数ヶ月後にはフランスの歌手・モデルであるキキに出会い恋に落ちる。職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになる。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交友し、ブランクーシに写真の技術の手ほどきをする。シュルレアリスム運動が起こると、シュリレアリスト達とも交わり、シュルレアリスム的作品も手がけることとなる。ソラリゼーションを表現技法として最初に利用したことでも有名。
- 1925年、第1回シュルレアリスム展にマックス・エルンスト、パウル・クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと共に参加。シュルレアリスム的作品を手がける一方で、当時のアーティスト達の姿も写真に収めている。
- 1929年、キキと別れる。
- 1940年、戦火を避けてアメリカに移り、ロサンゼルスで暮らす。このころ、ハリウッドスターなどの写真を撮るが、パリほどの名声は得られなかった。
- 1946年、マックス・エルンストとドロテア・タニング、マン・レイとジュリエット・ブラウナーが合同で結婚。
- 1951年、パリでの活動を再開。
- 1969年、ボックスアートの「ペシャージュ」を作成。今はセゾン現代美術館(長野県)に保存されている。
- 1976年、パリで生涯を終える。墓はモンパルナス墓地にあり、ジュリエットと共に眠るマン・レイの墓碑には「Unconcerned, but not indifferent」と「Together Again」の文字が刻まれている。
映画監督作品
マン・レイはパリでの滞在期に、実験的なサイレント映画の制作も手がけている。
最初の作品、"Le Retour à la Raison"(1923)は、ダダイスムの映画版ともいえるものである。「理性への回帰」というタイトルに反し、その中身は釘や画鋲、塩や胡椒などをカメラを使用せず直にフィルムに振りかけたりして焼き付けたイメージ群の、脈絡のないコラージュであり、最後にかろうじて具象的なイメージとして、女性の裸体が映される。
しかし、"Emak-Bakia" (1926、バスク語で「ひとりにしてくれ」の意)においては、より具象的なイメージが用いられ、路上を走る車、砂浜での波などの屋外の風景も映されている。ストップモーションを用いての簡単なアニメーションなども試されている。
友人である詩人、ロベール・デスノスの詩に触発された"L'Étoile de Mer"(1928、ひとで)では、男女の悲恋の物語という、抽象的であるものの核となるストーリーの確立が見られ、人物、感情の動きに焦点が当てられている。その翌年には、ド・ノアイユ子爵夫妻の依頼を受け、"Les Mystéres du Château du Dé" (サイコロ城の秘密)を制作した。なお、"Les Mystéres du Château du Dé" 以外の作品にはキキが出演している。
日本での主要展覧会
- マン・レイ展(国立新美術館、2010年7月14日(水)~9月13日(月))
- マン・レイ「私は謎だ。」展(監修:巖谷國士、マリオン・メイエ/展覧会図録に「マン・レイを知る100の項目(マン・レイ事典)」掲載/福井県立美術館、岡崎市美術博物館、埼玉県立近代美術館、山梨県立美術館、徳島県立近代美術館を巡回/2004−05年/絵画・オブジェ・映像・書籍資料、計350点を一堂に展示:宮脇愛子とマン・レイの交流を示す特別展示もあった)
マン・レイの本名
マン・レイの本名であるが、比較的信頼のおけるGetty財団の美術家データベース(Union List of Artist Names)で検索すると、次の4つが挙げられており、
- Radnitzky, Emmanuel
- Rudnitsky, Emmanuel
- Rudnitzky, Emmanuel
- Radenski, Emmanuel
これら以外を本名として挙げる文献もある。このような状態となっている経緯は明らかではなく、この状態を正面から受け止めたうえで、マン・レイの本名が何であるかについて、きちんとした検証をおこなう、ということはなされていない。このような現状では、いずれが本当かを判断する材料は存在せず、「マン・レイの本名は明確ではない」、といわざるを得ない。
なお、Wikipediaのロシア語版では、「Эммануэль Радницкий」を本名としている。また、英語版では「Emmanuel Radnitzky」、フランス語版では「Emmanuel Rudzitsky (ou Rudnitsky ou Radnitzky)」となっている。
その他
マン・レイという名前(アルファベット表記)を、人名索引などで、アルファベット順に並べる場合には、「Ray」を苗字(姓)と考えて「r」の欄に配置する場合と、「Man Ray」を一体のペンネームと考えて「m」の欄に配置する場合とがある。
関連項目