マハティール・ビン・モハマド

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マハティール・ビン・モハマド
Mahathir bin Mohamad
ファイル:Mahathir Mohamad addressing the United Nations General Assembly (September 25 2003).jpg
2003年に国連で演説するマハティール<small/></center>

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任期 1981年7月16日2003年10月31日

出生 1925年7月10日
クダ州アロースター
政党 バリサン・ナショナル
統一マレー国民組織

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配偶者 Siti Hasmah Mohd Ali

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マハティール・ビン・モハマド(Mahathir bin Mohamad、1925年7月10日/12月20日 - )は、マレーシア政治家医師。マレーシア第4代首相。マレーシアの首相の中では最長の22年間を務めた。

開業医から政治家に転じ、欧米諸国ではなく、日本の経済成長を見習おうというルックイースト政策をはじめ、長期に及ぶ強力なリーダーシップにより、マレーシアの国力を飛躍的に増大させた。

来歴

1925年7月10日[1]、英領マラヤ時代のマレー半島北部クダ州の州都アロースターに、9人兄弟の末っ子[2]マレー人として生まれた。父はインドケララ州から移住してきたイスラム教徒の家系の出身で、アロースターに出来た最初の英語学校の校長だった[3]

1946年 統一マレー国民組織 (UMNO) 発足に関与、政治活動を開始。1953年シンガポールのエドワード7世医科大学(現シンガポール国立大学及びマラヤ大学医学部)を卒業し、医師の資格を取得。

1957年、アロースターの総合病院を辞職した後に、同地でマレー人初の医院を開業し、貧困層への診療に取り組む。医師業と並行して、UMNOの政治活動に従事した。

1963年 マレーシア成立。翌1964年4月25日に実施された総選挙において、クダー州から選出され、下院国会議員となった[4]1965年には統一マレー国民組織の最高評議会の委員に選出されている。

5月13日事件とラーマン批判

テンプレート:Main 1969年総選挙において、全マレーシア・イスラーム党(PAS)のユースフ・ラーワーと争い議席を失った[5][4]。この時の総選挙におけるマハティールは、華人層から「ウルトラ」という批判を浴びていた。また、トゥンク・アブドゥル・ラーマン首相に対しては、マレー人の生活向上のために積極的ではないという批判を展開していた[4]

華僑系とマレー系との対立が激化し、マレーシア史上最悪の民族衝突事件である5月13日事件が発生すると、マハティールはラーマン批判のキャンペーンを展開した。6月17日は4枚の私信をラーマンに送り、1969年総選挙の敗北と5月13日事件の責任を取るために退陣を迫った[4]。この私信が新聞に公開されたことにより、アブドゥル・ラザク副首相は、UMNOの最高評議会を招集し、マハティールはUMNOから除名された[4][5]

除名後、マハティールは、『マレー・ジレンマ』("The Malay Dilemma")を1970年に著し、マレー人が華人に対して経済的に劣っている理由とこの状況を克服するための方法を論じた。マレー・ジレンマは、マレーシア国内では発禁処分となったが、シンガポールでは読むことが可能であったことから、多くのマレーシア人が読んだとされる[6]

UMNO復帰

1972年、アブドゥル・ラザクと和解、UMNO復帰を果たす。1973年マレーシア食品工業公社会長に就任すると同時に、上院議員に任命された。1974年には、1974年総選挙に立候補するために、上院議員を辞職、その際の総選挙でクダ州から立候補し当選、下院議員復帰を果たした。9月5日の組閣人事で、新内閣の教育相に任命された。マハティールの教育相就任は、UMNO内の序列順位で首相兼外相のラザク、フセイン・オン副首相兼蔵相兼公社調整相に次ぐナンバー3になったことを示唆した[7]

1976年1月、ラザクが病気療養先のロンドンで急死すると、副首相であるフセイン・オンが第3代首相に就任し、マハティールは副首相に就任した。副首相時代のマハティールは、PASとUMNOの対立の収拾に対処することとなる。クランタン州において発生したナシル(Mohamad Nasir)・クランタン州首相(UMNO)が、アスリ・イスラーム党党首とロフティ州連絡委員長がクランタン州首相であった時代(1964年-1974年)にシンガポール籍の企業を含む内外の企業に貸与していた土地を回収したことにより、両者の対立が激化した。最終的には、非常事態を宣言し、同州の連邦政府直轄化を行うことで事態の収拾にあたった[8]

1978年6月に実施された総選挙において、UMNOとアライアンス関係を組む国民戦線は勝利し、7月27日に発表された組閣人事で、マハティールは副首相兼通産相に就任した。この頃、ラザク以来のブミプトラ政策がマレーシアに浸透する中で、ダーワと呼ばれるイスラーム復興運動が勃興した[9]。その代表格がマレーシア・イスラーム青年運動(ABIM、en)やダールル・アルカムである。

首相就任

1980年末、フセイン・オン首相の健康問題が持ち上がると政権交代が問題となった。1981年5月15日、フセイン・オンが健康問題を理由に辞職を発表すると、6月に開催されたUMNO全国大会でマハティールが無投票でUMNOの総裁に選出された。

7月16日、第4代首相に就任した。以降、2003年まで首相を任じた。7月19日には、組閣人事を発表した。自らは国防相を兼任するとともに、5月13日事件以前からの盟友であるムサ・ヒタム(en)を副首相兼内相に任命したため、「2M内閣」と呼ばれた[10]

ルックイースト政策

テンプレート:Main マハティールは就任第一声で「迅速・清潔・効率的な行政」を掲げ[10]、経済面では、ブミプトラ政策の推進に邁進することとなった。それが、1981年12月15日に表明された「ルックイースト政策」の発言である。

第二次マハティール政権 1983-1986

1983年4月に実施された総選挙に先駆け、ABIMの指導者であるアンワル・イブラヒムのUMNO参加が決定した。UMNOはマレーシアにおけるイスラーム復興運動で大きな影響力をもつアンワルを党内に引き込むことで、最終的にはABIMの弱体化に成功した[10]

選挙後、発足した第二次マハティール政権は、1983年には、政治介入を行い、加えて、免訴特権を持つスルタンたちとの対立の過程で、憲法改正を推進し、スルタンの発言力をそぐことに成功した[10]。一方で、ブミプトラ銀行の子会社であるブミプトラ・マレーシア・ファイナンス(BMF)の不良債権問題を収拾するに当たり、マレー人経営層の腐敗と25億リンギの公的資金注入を余儀なくされ、マハティールの権威が損なわれかねない情勢に陥った[10]

1984年、マハティールは第四次マレーシア計画の中間報告を行い、政策と目標を明らかにしていく中で、UMNO内部では、マハティールの政治手法に対しての不満、独断専行という批判が持ち上がった。7月14日には内閣を改造し、UMNO長老層の引退を迫った。さらに、1986年になると、盟友であるムサ・ヒタムとの対立が顕在化し出した時期でもあった。ムサ・ヒタムは副首相を辞職し、ガファール・ババが国家農村開発相と副首相を兼任する体制へと変わった。

第三次マハティール政権 1986-1990

1986年7月に実施された総選挙において、国民戦線は、憲法改正問題、BMFのスキャンダル、UMNOの内部対立、これに加えて、1984年以降のマレーシア経済は不況の真っ只中であり、マハティール政権にとって不利な情勢であったが[10]、8月には、第三次マハティール政権が発足する。マハティールは内務相を兼任する。アンワルが教育相に就任し、実質的にもマハティールの後継者としての地盤を固めていったと目されていった[10]

1987年、マハティールとムサ・ヒタムの対立が明確となった。4月2日のムサ・ヒタムのマハティール批判(BMFのスキャンダル、新規資金不足にもかからず推進される大型プロジェクトの推進への批判、ルックイースト政策と民営化政策の批判[10])に対して、4月10日、マハティールはムサ・ヒタムへの批判を展開し、そのまま4月22日のUMNO役員選挙に突入した。UMNO役員選挙において、マハティール総裁-ガファール・ババ副総裁が僅差ながら勝利を収めた。この対立は翌年のムサ・ヒタム、ラザレイ・ハムザといった反マハティール派の46年精神党結党につながった[10]

1989年、心臓バイパス手術を受けた後、4月には公務に復帰。5月半ばからはアメリカ合衆国、イギリスを訪問するなど、精力的な活動を続けた。

第四次マハティール政権 1990-1995

1990年10月の総選挙で勝利を収めたマハティールは、引き続き政権を担当することとなり、第四次マハティール政権が発足した。

ワワサン2020構想

1991年2月28日、新経済計画(NEP)が終了するのに伴い、マレーシアを2020年までに先進国の仲間入りを達成させる野心的な長期開発構想プロジェクト「テンプレート:仮リンク(ヴィジョン2020)」が策定され、マレーシアの経済発展の新しい指針となった。9つの戦略的課題[11]を提示することで、30年間でのマレーシアの国内総生産を8倍(1990年時点で1150億リンギから2030年時点で9200億リンギへ)に伸ばすことを目標に据え、内閣改造の目玉として、アンワルを教育相から蔵相に配置転換することでそのプロジェクトの実務を担当させた[11]

長期政権になったマハティール政権内部では世代交代の声が高まったのもこの時期である。1993年のUMNO役員選挙において、アンワルがUMNO副総裁に選出される公算が大きくなるにしたがい、ガファール・ババ副総裁は、10月末には内閣のポスト全てを辞した。翌月、マハティール総裁-アンワル副総裁が無投票で決定したことで、世代交代の機運が明確となった。

1994年には、再度の憲法改正が実施され、マレーシア憲法66条において、立法過程での最高元首の裁可権限の強化され、40条第1A項新設に伴う「最高元首が助言に基づく行動をとる」と定められたことにより、首相府の強化が実施された[12]

第五次マハティール政権 1995-1999

アジア通貨危機

テンプレート:Main 1997年7月、タイバーツの通貨危機を皮切りに、アジア通貨危機が発生した。マレーシアの国内総生産は、通貨危機発生前は、1USドル=2.5リンギットであったものが、98年2月には、4.2リンギットまで暴落した[13]

韓国インドネシアタイ王国が国際通貨基金(IMF)に対して、財政支援を求め、財政赤字を縮小するための緊縮財政と通貨安定のための高金利政策を採用する中で、マレーシアの政策は、独特なものであった。1USドル=3.8リンギットに固定することで通貨の安定を図る一方、財政支出の拡大、金利の引き下げの断行を行うことで、景気刺激策に打って出た。同時に、資本の海外流出を防ぐために、非居住者のリンギット取引を中央銀行の許可制へ移行、また、1998年9月から1年間は、非居住者がマレーシア株式及びリンギット建資産の売却で得た外貨の持ち出しの禁止を行った[13]

アジア通貨危機は、タイをはじめとする各国の経常赤字と国内不動産のバブル化とそれに見合わない形で現地通貨が割高に放置されていたこと、対外債務と外貨準備高の不均衡(タイの場合、1997年時点で対外債務は1060億ドルであり外貨準備高は380億ドルしかなかった)が原因であるが、マハティールは、アジア通貨危機の原因をジョージ・ソロスをはじめとする欧米諸国の投機筋による実需を伴わない投機的取引が原因であるという論陣を主張した[13]。1997年11月29日付の『エコノミスト』において、マハティールの主張は批判の対象とされた[13]が、1998年、マレーシア経済がマイナス成長から脱する中で、インドネシアが政情不安(スハルトが退陣し、ハビビの就任)に陥り、韓国、タイもまた、経済的に浮揚するきっかけを掴み損ねていただけに、マハティールの政策運営に対して、評価の声が上がった。

政治的混乱

一方、この時期、UMNO内部において、権力闘争が本格化する。マハティールの後継者と目されていた財務相アンワル1998年9月に解任した。アンワルは、マハティールの強権発動に対して、マハティール批判を展開した。ペナンマラッカクアラルンプールとマレーシア各地で開催された集会で動員された人数は、マハティール政権を動揺させるに十分であった[14]9月21日、治安維持法違反でアンワルは逮捕され、政治闘争には終止符が打たれたが、アンワル支持派は、アンワルの妻ワン・アジサを党首に立て、国民正義党の結党に動いた。

第六次マハティール政権 (1999-2003) と退任

1999年に実施された総選挙は、UMNOの退潮を裏付ける結果となった。アンワルが治安維持法違反、後に、同性愛疑惑で逮捕され、政治の表舞台から去る中で、アンワルに代わる後継者として浮上したのが、1996年に、46年精神党からUMNOに復党したアブドラ・バダウィであった[15]

2002年3月に、貿易通貨として金貨ディナール(gold dinar)を使用することを提唱。その後、マレーシア経済が回復基調となると、再び政治的に安定を迎え、2003年10月31日、22年間務めた首相の地位から退いた。同年、サイドシラジュディン国王から、最高位勲章「SMN勲章」及び「トゥン」(Tun) の称号を下賜された。これに先立って1997年にはキング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門を受賞している。2004年には中国清華大学より名誉博士号が授与され、2008年には立命館大学より第36号名誉博士号が授与される。

経済政策

テンプレート:Main 従来の農作物や鉱産物の輸出、観光業に依存した体質から脱却し2020年先進国入りするとの目標「ワワサン(マレー語で vision の意)2020」を掲げ、特に近年は、アジアにおけるIT先進国となるべく様々な経済政策を推進した。代表的なものとして、首都クアラルンプール周辺地域に建設された最新のITインフラが整備された総合開発地域マルチメディア・スーパーコリドーの建設が上げられる。このマルチメディア・スーパーコリドーには、中核となるハイテク工業団地サイバージャヤと、首相官邸や各省庁舎が立ち並ぶ行政都市プトラジャヤ、クアラルンプールの新しい空の玄関となるクアラルンプール国際空港 (KLIA)、空港に隣接するスパン (Sepang) サーキットなどが建設された。

また、国民車構想を提唱し、日本の三菱自動車の技術を導入した国産車メーカー「プロトン」の設立や港湾の整備、空港や鉄道などの各種交通インフラの充実など、主にインフラ整備と重工業の充実を中心とした経済政策を積極的に行い、一定の成果を上げた。

マレーシアも交渉に参加している環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)については批判的であり、2013年8月26日、「TPPに署名すれば、外国の干渉なしでは国家としての決定ができなくなり、再び植民地化を招くようなものだ」との考えを語っている[16]

財政政策

消費税は安定財源という面だけではなく名目GDPの一部門である個人消費に確実に悪影響を及ぼす側面も有しているので、もし消費増税が不況を呼ぶならその増税は中期的には国益に反する。よって減税が国家の税収増には効果的である。実際マレーシアで、電気製品や時計などについて消費税を完全に廃止したところ、マレーシアで買い物目当てで外国人の入国が増え、マレーシア国内で消費増となり企業収益の増加とそれによる法人税の税収増によってマレーシア政府の税収が増加した。また減税は企業活動の促進を助成し国を富ませることに貢献した。一方増税はそれとは逆の方向に国家経済をもっていきかねないので、税率制定には慎重であるべきだとし、経済のあらゆる部門へどのような影響を与えるか考慮する必要があるとする[17]

政府による投資はGDPの重要な要素であり、財政出動での公共事業、なかでもインフラストラクチャーの整備は乗数が高く新産業育成や人・物・金の流動化を促すので経済成長に大きく貢献する。

外交政策

当時のアメリカ人権外交と衝突するも実行に移した。対外的にも1990年に後の東アジア共同体構想に繋がる東アジア経済グループ (EAEG) 構想やその発展版の東アジア経済協議体 (EAEC) 構想を打ち上げるなど、積極的に行動している。

東アジア経済協議体構想やルックイースト政策に見られるように、アジア諸国との連帯をその政策の中心に置いたが、隣国シンガポールや、白人国家オーストラリアの首脳に対して挑発的な言動を取ったり、アメリカに異議を唱えるなど、その言行は世界各国から注目された。

また、ユダヤ人や外国人投資家に対する挑発的な発言は国際的にも波紋を呼んだが、テンプレート:要出典範囲。実際、他のイスラム諸国や、イスラム原理主義者を厳しく批判する発言も多く見られたが、これらの過激な発言や独裁主義的なやり方は欧米諸国からの反感を買い、在職中を通じ、旧宗主国イギリス、アメリカやオーストラリアなどの白人国家との関係は良好ではなかった。

日本について

息子や娘を日本の大学に留学させたり日本に関する著書を出したり、あるいは政治の舞台から離れた現在では日本人と共同でベーカリーを経営するなど熱烈な親日家である。

太平洋戦争の評価についても、「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。勿論、そういう出来事が過去にあったことを忘れたわけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言している。テンプレート:See also

日本の外交政策について「日本は、いつまでアメリカの言いなりになり続けるのか。なぜ欧米価値観に振り回され、古きよき心と習慣を捨ててしまうのか。一体、いつまで謝罪外交を続けるのか。そして、若者は何を目指せばいいのか。日本人には、先人の勤勉な血が流れている。自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」と述べた。

日本の経済成長をマレーシア発展の参考にしてきた一方で、近年の日本経済については批判的である。また、近年の日本の若者に茶髪が多いことにも批判的だったが、修学旅行でマレーシアを訪れた高校生たちとの会話を通じて「批判的な考えが変わった」とも述べている。

著書

  • 『アジアから日本への伝言』(2000年)
  • 『立ち上がれ日本人』(2003年)
  • 『日本人よ。成功の原点に戻れ』(2004年)

など多数

脚注

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参考文献

外部リンク

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  1. 公的書類上は12月20日だが、後に本人が実際の生誕日は7月10日と発言
  2. テンプレート:Cite news
  3. テンプレート:Cite book
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 テンプレート:Cite book
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite book
  6. 萩原(1996) pp.116-123
  7. 萩原(1996)pp.133-143
  8. 萩原(1996)pp.146-158
  9. 萩原(1996)pp.158-165
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 10.8 萩原(1996)pp.168-195
  11. 11.0 11.1 萩原(1996)pp.204-208
  12. テンプレート:Cite book
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 テンプレート:Cite book
  14. 林田(2001)pp.113-114
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite news
  17. マハティール元首相、日本の政治にもの申す