マニュエル・ケソン
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マヌエル・ルイス・ケソン・イ・モリーナ Manuel Luis Quezon y Molina | |||||
ファイル:Manuel L. Quezon (November 1942).jpg |
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任期 | 1935年11月15日 – 1944年8月1日 | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 バレール | ||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 サルナック・レイク |
政党 | 国民党 | 配偶者 | アウロラ・アラゴン・ケソン |
マニュエル・ルイス・ケソン・イ・モリーナ(Manuel Luis Quezon y Molina, 1878年8月19日 - 1944年8月1日)はフィリピンのコモンウェルス(独立準備政府)初代大統領。
20ペソ紙幣に肖像が使用されている。
プロフィール
1878年8月19日にタヤバス州(現在のケソン州)バレル町で生まれ、テンプレート:仮リンク文学部に入学し16歳で卒業。1899年、宗主国であるアメリカ合衆国からの独立運動に参加するためサント・トーマス大学法学部を中退してエミリオ・アギナルドの革命軍に参加する。1903年に卒業、司法試験に合格して弁護士活動を一年間行った。
1905年、タヤバス州知事選に当選し知事を二年間務めた。1907年の第一回総選挙に即時独立を求める国民党から出馬し国民議会(一院制)議員に当選、与党院内総務を務めた。1909年、駐米委員に任命された。1916年、安定した政府の樹立を条件に将来の独立を盛り込んだアメリカのテンプレート:仮リンク(フィリピン自治法)の成立に尽力、その功績を背景に二院制議会の上院議長に就任した。1935年、新憲法が国民投票で批准され、総選挙でコモンウェルスの大統領に選出された。
大統領再選の1941年12月に日本がアメリカに宣戦布告し、翌1942年に日本がフィリピンを占領した後、アメリカに渡り亡命政府を樹立した。フィリピン完全独立を見届けることなく志半ばの1944年8月1日にニューヨークで持病の肺結核により逝去。
「フィリピン語の父」
現在のケソン市は彼の名に由来する。1937年にタガログ語を国語と定めたことから「フィリピン語の父」といわれる。
家族
1918年オーロラ・アラゴンと香港で結婚した。ケソンとオーロラ・アラゴンはいとこ同士である。4人の子供を残した。