バルテュス

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バルテュス , 1996.6月,

バルテュス(Balthus, 1908年2月29日 - 2001年2月18日)は、フランス画家。本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ (Balthasar Michel Klossowski de Rola) 。ピカソはバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と称えている。

略歴

父親・ローラ紋章のエリク・クウォソフスキテンプレート:Lang-de, テンプレート:Lang-pl)は東プロイセンラグニットシュラフタ(ポーランド貴族)で、母親エリーザベト・シュピーロElisabeth Dorothea Spiro)はノヴゴロドに起源をもつブレスラウ(ヴロツワフ)生まれのロシア・ユダヤ人。また、実兄のピエール・クロソウスキーマルキ・ド・サドフリードリヒ・ニーチェの研究者として著名な作家である[1]

ほとんど独学であったバルテュスは、ルーヴル美術館で古典絵画の巨匠たちの作品を模写したが、なかでもピエロ・デラ・フランチェスカの影響が大きいとされる。古典を消化した、堅固な構成と繊細な描法でモニュメンタルな女性や少女像を多く描いたが、活動当初はシュルレアリスムや表現主義の全盛期であったため、作品の売り込みに苦労したバルテュスは一時衝撃的な題材を描き、話題集めに腐心した。

1937年にアントワネット・ド・ワットヴィル (Antoinette de Watteville) と最初の結婚をし、息子スタニスラス・クロソウスキー・ド・ローラ (Stanislas Klossowski de Rola) をもうける。離婚後もこの先妻とは生涯友人であり続けた。スタニスラスは、後にバルテュスの作品集出版に当たって執筆を担当している。1941年にはピカソが、バルテュスの「ブランシャール家の子どもたち」を購入している(バルテュスは生存中にルーブル美術館に展示された数少ない画家の一人だったが、この作品が展示されている)。1944年11月には、バルテュスがパリにピカソを訪問した。

1962年、パリでの日本美術展の選定のために訪れた東京で、当時20歳だった出田節子(いでたせつこ)と運命的な出会いをした。当時、離婚していなかったし、フランス中部・シャシー村の城館で8年間も生活をともにしてモデルを務めた義理の姪フレデリック・ティゾン(Frédérique Tison)もいた。節子とは1967年に結婚した。節子夫人も画家であり、2人の間には1973年に誕生した娘春美(ハルミ・クロソフスカ=ド=ローラ、ジュエリーデザイナー)がいる。バルテュスの生前、本人の意志により夫人は基本的に和服であった。

1964年、作家で当時は文化大臣だったアンドレ・マルローによって、ローマヴィラ・メディチ(芸術のためのフランス大使館の役割をもっていた)の館長に就任、文化交流とともに館の再生にあたる。

晩年はスイス、ヴォー州、ペイダンオー地方のロシニエールにある歴史的な山荘「グランシャレー」に暮らした。葬儀には大統領や首相ほかボノU2などのロックスターも出席した。

勝新太郎はバルテュスの山荘に招かれ、居合抜き三味線演奏を行なったことがある(ドキュメンタリー映画『バルテュス』(〈原題:Balthus the Painter、監督:マーク・カイデル〉より)。

リチャード・ギアとの親交もあった。

代表作

参考文献

  • 『ミツ-バルテュスによる四十枚の絵』 - 画:バルテュス / 著:ライナー・マリア・リルケ (ISBN 4812100623) / 訳:阿部良雄 / 泰流社 / 1994年
  • 『バルテュス―生涯と作品』 - 著:バルテュス、クロード・ロワ / 訳:與謝野文子 / 河出書房新社 / 1997年 (ISBN 4309255051)
  • 『バルテュス』 - 著:スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ / 訳:野村幸弘 / 岩崎美術社 (ISBN 4753413861)
  • 『バルテュスの優雅な生活 とんぼの本』 - 著:節子・クロソフスカ・ド・ローラ夫人 / 編:夏目典子、芸術新潮編集部 / 新潮社 / 2005年
  • 『バルテュス』 - 編:阿部良雄、與謝野文子 / 白水社 / 2001年
  • 『バルテュスとの対話』 - 編:コスタンツォ・コスタンティーニ / 訳:北代美和子 / 白水社 / 2003年
  • 『バルテュス、自身を語る』 - 聞き手:アラン・ヴィルコンドレ / 訳:鳥取絹子 / 河出書房新社 / 2011年

関連項目

外部リンク

脚注

  1. en:Balthus#Ancestry