ティヴォリ
テンプレート:コムーネ ティヴォリ(テンプレート:Lang-it)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万3000人の基礎自治体(コムーネ)。ローマの東約30kmに位置する。
古代ローマ時代から保養地として知られ、ハドリアヌス帝や多くの貴族たちによって別荘(ヴィラ)が営まれた。ヴィッラ・デステ(エステ家の別荘)とヴィッラ・アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘)のふたつが、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、多くの芸術家によって、この地を題材にした作品が作られている。
日本語文献では「チボリ」などの表記もされる。
目次
名称
イタリア語での発音はティーヴォリが近いが、ティヴォリの他、チボリ、ティボリなどと表記されることも多い(本項での表記は便宜上「ティヴォリ」に統一する)。
地理
位置・広がり
ローマ県東部に位置するコムーネで、ローマ中心部の東北東約28kmに位置する[1]。フロジノーネからは北西へ約58km、ラクイラからは南西へ約66kmの距離にある[1]。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。
- マルチェッリーナ - 北
- サン・ポーロ・デイ・カヴァリエーリ - 北東
- ヴィコヴァーロ - 北東
- カステル・マダーマ - 東
- サン・グレゴーリオ・ダ・サッソラ - 南東
- ローマ - 西
- グイドーニア・モンテチェーリオ - 北西
歴史
創設
4世紀頃の古代ローマ人ガイウス・ユリウス・ソリヌス(en)は、マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の散逸した著作にあった「ティブル(テンプレート:Lang-la)の町は、アムピアラーオスの子カティッルスによって創設された。彼はテーバイでの虐殺を逃れてここへやってきたのである。カティッルスと三人の息子たち、ティブルトゥス、コラス、そして父と同名のカティッルスらは、アニエネ台地からシクリ族を追放し、ティブルトゥスの名にちなみ町をティブルと名付けた。」という一説を引用した。さらなる歴史的根拠によると、ティブルはアルバ・ロンガの植民地の代わりであった。この一帯にある定住地の歴史的な痕跡は、紀元前13世紀に遡る。
『アエネイス』の中でウェルギリウスは、コラスと弟カティッルスの二兄弟を、トゥルヌス王(en:Turnus)を助けるティブル出身の軍事指導者として描いた。
エトルリア時代のティブルはサビニ人の都市で、ティブルの巫女(en:Tiburtine Sibyl)が定住していた。滝の上には2つの小神殿があり、伝統的なロトゥンダの神殿には女神ウェスタを祀っていた。長方形の神殿には、マルクス・テレンティウス・ウァロがアルブネア(水のナイアード)と呼んだ巫女が祀られていた。近くの森には、ファウヌスの神聖な森があった。
古代ローマ時代のティブルはその重要性を保った。アブルッツォへ向かうアペニン山脈の山岳地帯を縦断しなければならなかったローマ人たちが、必ず通る途上にあった(ウァレリア街道からの延長道路であるティブルティーナ街道)。アブルッツォには、古代ローマの宿敵であったサビニ人、ウォルスキ族、サムニウム人が住んでいた。
古代ローマ時代
初期はローマの独立した同盟都市として、ティブルは紀元前361年にガリア人と同盟した。この時代の防御壁が痕跡として残っている。しかし紀元前338年、ティブルはローマに敗退し併合された。
その後はローマの同盟市であったが、同盟市戦争を経てティブルは紀元前90年にローマ市民権を獲得し、その美しさと良質の水資源からリゾート地となり、多くのローマ人別荘が建てられて華やかであった。
最も有名な別荘の一つが、遺跡の残るヴィッラ・アドリアーナである。また、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとその腹心であったガイウス・マエケナスは共にティブルに別荘を所有していた。マエケナスより援助を得ていた詩人ホラティウスはこぢんまりとした別荘を構えていた。彼とガイウス・ウァレリウス・カトゥルス、スタティウスは全員それぞれの詩の中でティブルについて言及している。
273年にローマとの戦争に敗れて捕虜となったパルミラ王国のゼノビアはアウレリアヌス帝によってこの地に住居をあてがわれていた。2世紀のヘラクレス神殿が現在発掘されている。現在のディアッツァ・デル・ドゥオモは、ローマ時代の公共広場の上にある。
市の名前としては、ティブルに指小辞をつけたティブリ(Tiburi)が用いられるようになり、それがティボリ(Tibori)、Tiboliへ移り変わり、最終的にティヴォリ(Tivoli)となった。しかし、住民は今も自分たちをティブルティーニ(Tiburtini)と呼び、ティヴォレージ(Tivolesi)とは呼ばない。
547年、ゴート戦争(Gothic War)の過程で、市は東ローマ帝国の将軍ベリサリウスによって防備された。しかし、のちに東ゴート王トーティラ軍によって破壊された。戦後は東ローマ従属の公国となり、後に教皇領に加えられた。イタリアがカール大帝に征服された後、ティヴォリは皇帝の代理人である伯爵の領土となった。
中世
10世紀以降のティヴォリは、選挙制の執政に治められる独立したコムーネとして、零落した中央ラツィオを勢力下におく戦いにおいてローマの恐るべき競争相手となっていた。神聖ローマ皇帝オットー3世は1001年にティヴォリを征服し、教皇領の元におかれた。しかし、ティヴォリは15世紀まで自治同様の状態を維持していた。都市の強力さを象徴するのは、アレンゴ城、トーレ・デル・コムーネ、サン・ミケーレ教会などこの時代に建てられた建造物である。同様に新たな市壁が増加する人口によって拡張された(1155年に認可された)。コムーネ内部の激動のかたみには、現在も見られる塔のある家、ヴィコロ・デイ・フェッリ、ヴィア・ポステラ、ヴィア・デル・セミナリオ、ヴィア・デル・コッレなどがある。
13世紀、ローマの立法機関はティヴォリ市に朝貢を課し、地元出身の執政とともに連合したうえで、市を治める伯爵を任命する権利を与えた。14世紀、ティヴォリはゲルフ(皇帝)側について、対立教皇クレメンス7世に対抗するウルバヌス6世を強力に支援した。ナポリ王ラディズラーオ1世は、有名なコンドッティエーレのブラッチョ・ダ・モントーネ(en:Braccio da Montone)と同様、二度ティヴォリから反撃された。
ルネサンス期
ルネサンスの間、教皇と枢機卿らはローマへの自らの華やかな計画に限界をもうけず、ティヴォリにも自身の邸宅を建てた。1461年、ピウス2世はどっしりとしたロッカ・ピーア城を建てた。常に騒々しい民衆から己を守るためであり、ここに永久不滅の教皇の権力の象徴として示したのだった。
16世紀から、ティヴォリにはさらに別荘建設が進められた。最も有名な別荘は、1549年にピッロ・リゴーリオがイッポーリト2世・デステ枢機卿(アルフォンソ1世・デステの実弟)のため建て始めたヴィッラ・デステである。後期マニエリスムの有名な画家、リヴィオ・アグレスティ(フォルリ派)、タッデオ・ツッカリ兄弟の手によるフレスコ画で豊富に装飾されていた。1527年、ティヴォリは神聖ローマ皇帝カール5世とコロンナ家の支持者らに略奪を受け、この攻撃の最中に重要な芸術作品が破壊された。1547年、再びティヴォリは、教皇パウルス4世との戦いにのぞんでいたアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドに占領され、1744年にはオーストリア軍に占領された。
1835年、教皇グレゴリウス14世はヴィッラ・グレゴリアーナを建てた。アニエーゼの滝周囲を中心とする別荘施設である。これらはモンテ・カティッロの中のトンネルを通ってつくられた。
現代
1944年、ティヴォリは連合国側の空爆で甚大な被害を受け、イエズス会派教会の全体を破壊された。
ティヴォリの名声は、洗練されたリゾート地として、国内外に知れ渡っている。
経済
石灰華の生産、特に炭酸カルシウム質の白い岩はローマの建築物に使用されてきた。滝の水力発電はローマに供給されている。近郊の丘陵地帯はオリーブ林、ブドウ園、果樹園に覆われている。最も重要な地元産業は、製紙産業である。
文化・観光
古代から、皇帝ハドリアヌスや多くの貴族達の別荘が創られてきたことからもわかるように、独特の優美さと神秘的で夢想的なロマンス漂う牧歌的な美しき地である。緑豊かで穏やかな空気が流れており、タイムスリップしたかのような感覚を満喫することも出来るため、「ローマからの小旅行」として旅行する人たちも多い。
優れた芸術家達が、自身のコラージュ作品、写真作品、文章作品(詩や小説)、絵画作品、映像作品、音楽作品などで、 このティヴォリの地からインスピレーションを得たものを創作・表現し,発信して来ている。
- ヴィッラ・アドリアーナ - ハドリアヌスの別荘。ユネスコ世界遺産。
- ヴィッラ・グレゴリアーナ
- ヴィッラ・デステ - エステ家の別荘。ユネスコ世界遺産。
- ロッカ・ピーア城(it:Rocca Pia (Tivoli))
- ローマ(ブレーソの)円形劇場(Anfiteatro Romano o di Bleso)
- グレゴリアーノ橋(Ponte Gregoriano)
ティヴォリの名を冠するもの
ティヴォリ(チボリ)の名を冠したものとして、IBMに買収されたチボリシステムズ、宝塚チボリ、デンマークのチボリ公園(ここから倉敷チボリ公園が名前を使用)などがある。