テュイルリー宮殿
テュイルリー宮殿(テュイルリーきゅうでん、テンプレート:Lang-fr-short)は、17世紀から19世紀まで使用されていたフランス・パリにある宮殿。ルーヴル宮殿の西側に隣接する。また、チュイルリー宮殿とも表記される。
沿革
1563年に当時の摂政であった王母カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、フィリベール・ドゥ・ロルムの設計のもと、約100年の時を費やして完成した。
1664年にはルイ14世の命で、ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手掛けたル・ノートルによって泉水や散歩道などが整備され、現代に残る庭園を作り上げたが、1683年に王宮はヴェルサイユ宮殿に移る。再びテュイルリーに王宮が戻るのは、フランス革命の最中であった1789年のことであった(ヴェルサイユ行進を参照)。革命によりルイ16世が捕らえられたのちは、国民公会、公安委員会の拠点として使用される。一方で、ヴァンデミエールの反乱の後で成立した総裁政府は、政府をリュクサンブール宮殿などに移動させた。
後にナポレオン・ボナパルトが短期間だったが再び王宮として整備したが、1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中に焼失した。オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)やルーヴル宮殿の一部などパリ・コミューン時に焼失した建物は外壁を再利用して逐次再建された。しかし、外壁のみの廃墟となったテュイルリー宮殿は再建可能な状態であったものの王政・帝政の遺物として撤去が決まり、反対運動の中1883年に外壁が解体された。現在では庭園(テュイルリー庭園、仏:Jardin des Tuileries)のみが残り、当時の面影を伝えている。
再建計画
2003年、フランス政府はテュイルリー宮殿再建委員会を設置し、焼失した宮殿の再建計画を打ち出した。再建にかかる費用は約3億ユーロと推定され、税金は投入せず、全額を民間からの寄付で賄うとしている。再建後は、展示スペースが不足している隣接のルーヴル美術館から収蔵品の一部を移転し、展示を行うなどの活用方法が検討されている。