チャールズ・テーラー
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チャールズ・マッカーサー・ガンケイ・テーラー Charles MacArthur Ghankay Taylor | |
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任期 | 1997年8月3日 – 2003年8月11日 |
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 |
政党 | 国民愛国党
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リベリア内戦を引き起こし結果として権力を掌握したものの、内戦は近隣諸国を巻き込むことになり退陣を余儀なくされた事で知られる。
履歴
- 1948年モンロビアの高級住宅地アーティトン地区でアメリコ・ライベリアンの父とゴラ族(ギオ族とも)の母との間で生まれる(一説にはアメリコ・ライベリアンの血は入っておらず、現地の先住民とも言われている)。兄弟にボブ・テーラーと兄のネルソン・テーラー(内戦で死亡している)がいる。息子にアメリカで拷問罪の罪で起訴されたチャールズ・“チャッキー”・テイラー・(ジュニア)がいる。
- 1970年代にアメリカ・ベントレー大学で経済学を学ぶ。
- 1980年にサミュエル・ドウ政権下で調達庁長官に就任。その後公金横領容疑で逃亡先のアメリカで逮捕されたものの逃走。
- 1987年にガーナでブルキナファソ大使を介してリビアのムアマル・カダフィ大佐と接触。
- 1988年リビアのゲリラ訓練所でシエラレオネのアハメド・フォディ・サンコーと出会う。
- 1989年12月に反政府武装組織「リベリア国民愛国戦線(NPEL)」を結成し、コートジボワールから国境を越え、リベリア北部から進入し蜂起する。
- 1991年にはNPELを隣国のシエラレオネに侵入させ、親交のあったサンコーと共にシエラレオネ内戦も起こす。
- 1997年8月2日に大統領就任(NPELは国民愛国党に改組)するも内戦は収まらず。
- 2003年2月以降のアメリカ及び国際社会の圧力や反政府勢力の攻勢などを受け、同年8月11日に辞任しナイジェリアへ亡命。
- 2006年3月、亡命先のナイジェリア当局に拘束。シエラレオネ内戦に関与、虐殺や非道な行為を働いたとして国際戦犯法廷から起訴。
- 2006年4月、シエラレオネの首都フリータウンでのシエラレオネ特別法廷に出廷して無罪を主張。
- 2006年6月、フリータウンで審理実施した際の政情不安の予想を理由に、国際刑事裁判所(オランダのハーグ)に法廷が設置され、それに伴いハーグに移送される。
- 2007年6月、4日の公判で、検察側の9人に対して弁護団が1人しかいないことを理由に審理出席を拒否。
- 2007年8月、新たな弁護団が就任し、テーラーも20日に出廷。判事団は新たな弁護団を用意する時間を与えるとして公判を2008年1月7日まで延期することを決定した。
- 2012年4月26日に有罪判決。国際連合が設置する法廷での国家元首経験者に対する有罪判決は史上初[1]。
チャールズ・“チャッキー”・テイラー・ジュニア(Charles “Chuckie”Taylor, Jr.)
本名チャールズ・マッカーサー・エマニュエル(Charles McArthur Emmanuel、別名でロイ・マッカーサー・ベルファスト・ジュニア、Roy M Belfast,Jr.とも言う)はチャールズ・テーラーの実の息子で“チャッキー”の愛称で知られている。アメリカ生まれでフロリダ州マイアミに住み、アメリカ市民権も取得している。父がリベリアの政権を握っていた時は警備担当を務めていた。そして2002年7月24日リベリアの首都モンロビア周辺で、ある男性(検察は特定していない)を拉致し、熱したアイロンを押しつけたり、熱湯をかけたり、性器に電気ショックを与えたり、囚人同士に同性間性行為を強要するなど残酷な拷問をしていたとされる。フロリダ州南部を管轄する連邦検察官事務所は2006年に拷問罪で彼を起訴した。
出典
関連項目
- 『ロード・オブ・ウォー』- 劇中に登場するリベリアの暫定大統領アンドレ・バプティストとその息子バプティスト・ジュニアはテーラー父子がモデルと思われる。
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ルース・ペリー
(暫定)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon リベリア共和国大統領
第22代:1997 - 2003
|style="width:30%"|次代:
モーゼス・ブラ
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