タブリーズ
テンプレート:基礎情報 イランの都市 タブリーズ(テンプレート:Lang-fa; Tabrīz)はイラン北西部の都市。東アーザルバーイジャーン州(東アゼルバイジャン州)の州都。人口は約140万人でイラン第4位。
テヘランから約600km。サハンド山(3,710m)の北側、標高1350mに位置する。イランでも非常に古い歴史を持つ地域で[1]住民の多くはアゼルバイジャン人である。
歴史
この都市がいつ建設されたかには諸説あり、その歴史は少なくとも3世紀のサーサーン朝までさかのぼることができる。タブリーズの名は、297年にアルメニア王国の王ティリダテス3世の名に因んでタウリス(Tauris)と呼ばれたことに由来する。その後、アラブ人のイスラム勢力が侵攻する。8世紀のアッバース朝のカリフであったハールーン・アッ=ラシードの妻の一人によって再建された。
モンゴルの侵攻を受けた13世紀後期以降、アルグンによってイルハン朝(イル=ハン国)の都とされ、新たに城壁も築かれた。またペルシア語ではなくアルタイ諸語がタブリーズやアゼルバイジャンに広がっていく。その後、1375年から黒羊朝(カラ・コユンル朝)の都となったが、1392年にはティムールの攻撃を受けた。さらに1469年に黒羊朝を追った白羊朝(アク・コユンル朝)の都となった。さらに、白羊朝を滅ぼしたイスマーイール1世が1501年にタブリーズに入城、このサファヴィー朝も、1548年のガズヴィーンへの遷都まで都とした。1514年、チャルディラーンの戦い後、オスマン帝国の一時的な占領を経験する。オスマン帝国との抗争は続き、1585年から1603年にかけて再度オスマン帝国の支配を受け、その後サファヴィー朝の領有に復してから、交易都市としての発展が始まった。1724年にはまた占領される。1826年、今度はロシアが占領、1828年に奪い返し、ガージャール朝の皇太子の宮殿などが造られた。
20世紀になると1905年から1911年にかけてイラン立憲革命の中心地となる。第二次世界大戦後、ソ連はイラン北西部に傀儡政権・テンプレート:仮リンクを樹立(1946年)、タブリーズにその都が置かれたが、ほどなくソヴィエト軍は撤退、タブリーズはイラン領に戻った。
地震活動の活発な地域であり、歴史的な遺跡はあまり残っていない。イルハン朝の時代、13世紀初頭に建設された要塞の跡、アルゲ・タブリーズやマスジェデ・カブード(ブルー・モスク)などが有名。
脚注
- ↑ エラムとハカーマニシュ朝中核の地であった。