スティーブ・ウォズニアック
スティーブン・ゲーリー・ウォズニアック(Stephen Gary Wozniak、1950年8月11日 - )は、アメリカ合衆国のコンピュータ・エンジニアである。スティーブ・ジョブズ、ロン・ウェインらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたApple Inc.の共同設立者の一人。 Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発。多くのコンピューター関係者に人柄を慕われ「ウォズ」と、また、技術者からはApple IIの設計などから伺えるその技術力から「ウォズの魔法使い」とも呼ばれる。アメリカ国家技術賞とグレース・ホッパー賞を貰っている。
経歴
幼少期
ロッキード社のエンジニアだった父ジェリー・ウォズニアックの元に、カリフォルニア州サンノゼにて生まれる。両親の家系は共にポーランド系。6歳の時、アマチュア無線の免許を取得し、自作キットのアマチュア無線機を組み上げた。13歳の時に、トランジスタの組み合わせによる原始的なコンピュータ(二進加減算機)で科学コンクールに優勝する。
1971年、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていたときに、スティーブ・ジョブズと知り合う。容姿も性格も正反対の二人であったが、すぐに意気投合した。
ある日、ウォズの母親がくれた『エスクァイア』という雑誌の1971年10月号に、ブルー・ボックスというフリーキング(phreaking、電話システムを騙して不正に無料で電話をかける行為)装置が掲載されていた。ウォズとジョブズは二人でスタンフォード大学の図書館に潜り込み、AT&Tの技術資料を見つけ出して、自分たちオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。ウォズはこの装置をバークレー・ブルーと名前を付けた。二人は、長距離電話をかけまくり、ウォズはヘンリー・キッシンジャーを名乗って、バチカンに電話をかけて教皇を呼び出したら、就寝中で今から起こすと言われて慌てて切ったともいう。
ウォズは、この装置を作ったことで満足であったが、ジョブズは、当時ウォズの通っていたカリフォルニア大学バークレー校の寮で、1台100ドルから150ドルで売りさばいた。装置自体は40ドル程度で、大いに儲かったようだ。そのうちピストルの銃口を突きつけられながら商談するはめになって手を引いた。
ウォズも学業が成り立たなくなり、1973年に彼は大学を休学、その後ヒューレット・パッカードに入社し、電卓設計の仕事を与えられた。また、同社社員時代、ジョブズの依頼でアタリ の 「ブレイクアウト」に必要な汎用ロジックICの数を半減させる、という仕事を行ったが、この時ジョブズは山分けと称して報酬額をかなり過少に伝え(いわゆる「ピンハネ」)、そのほとんどをジョブズが手にした(後述)。
Apple I
1974年にジョブズがカリフォルニアに戻ってくると、2人は地元のコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブ(「自家醸造」コンピュータ・クラブ)に参加するようになった。
1974年に、インテルが8080をリリースすると、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され人気を博した。ウォズは、8080より、6800の流れを汲むMOSテクノロジー社の6502の方が安く、しかも簡易な回路のコンピュータができると確信し、1975年10月から半年間かけて設計。1976年の3月に最初のプロト機が出来上がった。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行い賞賛を受けた2人は自信を持つ。ウォズは最初ヒューレット・パッカードの上司にこの機械を見せて商品化を働きかけたが、断られた。次にジョブズの働いていたアタリに商品化を持ち掛けるがここでも断られ、自分達で売り出すことを決意する。
ジョブズは、マウンテンビューにあったコンピュータショップのバイトショップのオーナーであったポール・テレルに基板を見せた。テレルは非常に強い興味を持ち、30日以内に50台を納品出来たら、現金で代金を支払うと提案した。ジョブズはワーゲンを1500ドルで売り、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラミング電卓を250ドルで売り払い、100台分の部品を集めた。さらに、アタリで営業をしていたロン・ウェインも、株式10%分の権利を持つことを条件として参加した。彼らは、基板とマニュアルの製作にあたった。
彼らの会社の名前はアップルとなった。 その当時ジョブスはリンゴダイエット(当時の流行らしい)をしていた為との話が1番言い伝えられた話で有る(マッキントッシュもリンゴの品種である スペルは換えられているが) この頃のAppleコンピュータのロゴはリンゴの木と女性 そしてリボンでAppleコンピュータと書かれていた。
ジョブズが「アップル」を提案したとき、ウォズは即座に「ビートルズのアップル社と同名では訴訟沙汰にならないか?」と声にこそ出してはないが、頭の中で心配したという。
1976年6月に、バイトショップに「Apple I」50台を納品。666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロン・ウェインは権利を放棄して会社を去った。しかし8月を過ぎると売上は好転。ジョブズとウォズは昼夜時間を惜しんでApple Iを作り、そして売った。
アップルコンピュータ設立
Apple Iの最初の取引で、約8000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。マークラは、フェアチャイルドとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。
1977年5月には、ナショナル・セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはアップルをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議した。社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが社員番号3、スコットは5番目の入社であったが、好きな数字である7を社員番号としてもらった。([1])
これと前後してウォズは、アップルに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、機能拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発。1977年6月に発表した。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。1980年にアップルはIPO(株式公開)を果たし、ウォズには1億ドルを超える創業者利益が転がり込んだ。
1981年2月、サンタクルーズスカイパークでウォズ自身が操縦していた軽飛行機が墜落。一命は取り留めたが、事故当時を含め5週間記憶を失った。
1982年にウォズはウッドストック・フェスティバルの再来を夢見て、第1回USフェスティバルのイベントを開催した。正規の入場料を払った参加者は少なく、さらに340人の逮捕者を出して終わった。しかしウォズは1983年にも第2回USフェスティバルを開催する。
1985年2月6日、アップルがApple IIを正しく扱っていないことを理由に退社。再びカリフォルニア大学バークレー校にロッキー・ラクーン・クラークという名前で入学し、1986年6月に電子工学の学位を取得した。(なお自伝iWozによると、公式にはまだアップル社員であるらしい。商品を社員割で購入しており、Apple Storeで「社員番号は?」「1番だよ」というやり取りをしているとのこと。また、同自伝によると退社理由はリモコン製作会社設立の為と語っている)
1985年2月、ロナルド・レーガン大統領から米国科学技術メダルを、ジョブズと共に授与される。
以後、現在に至るまで、地域の子どもや若者のための情報化教育活動などをしている。
アップルがMacintoshに注力しApple IIを冷遇していたことに不満を持っていたウォズだが、Macintoshの長年のユーザでもあり、近年のアップルにおけるMac OS XやiPhoneへの取り組みを賞賛している。(iPodObserver)
ジョブズの死後、インタビューの中でジョブズ亡き後のアップルに対して数々の感情を持っており、そのうちの一つが不安であるという。彼は現在のソニーを例に挙げ「ソニーの製品はシンプルで美しかったが、現在の彼らからはそれが失われている」とコメントし、アップルに対してソニーの二の舞になるのではないかという不安があるとコメントした[1]。
人物
陽気でよく喋るが内容が典型的な技術オタク。金銭的な執着もあまりない。ユーモアのセンスは素晴らしい。少年時代は引っ込み思案な性格だった。
大変ないたずら好きで、時には前述の電話のエピソードのように法律の枠を踏み越えてしまう事もあるが、悪意はなく、人を笑わせるのが好きなのである。
ハード・ソフト両面共に芸術的と称される設計センスで、Appleの社風に根本的なインスピレーションを与えている。Macintoshの開発者もApple IIで鍛えられた者ばかりで、広告用の学歴に「ウォズニアック大学」と書いた同僚がいた。
ウォズニアックが Apple社の設立に弱腰だったのを、ジョブズが「一度くらい失敗したっていい。それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるんだぜといえることのほうが大切さ」といって口説いたというエピソードは有名である。
前述のとおり、ジョブズがアタリの技師になったころ、ブロック崩しゲームである「ブレイクアウト」の設計を命じられた。 ジョブズは自身の手に余る仕事であることを認識。すぐにウォズニアックに助けを頼んで、2人は4日間の徹夜でブレイクアウトを完成させた。ジョブズは報酬の山分けをウォズニアックに提案し、アタリから受け取ったとする700ドルのうち350ドルを小切手にしてウォズニアックに渡した。しかし、実際にはジョブズはアタリから5000ドルを受け取っていた。後にウォズの知るところになるが、彼はたとえ25セントしかもらえなくても引き受けただろう、と語った。
また、1980年にアップルが株式公開をする際、株を持っていたのは創業者と一部のマネージャーだけであった。しかし、ウォズはストックオプションの権利を持たない従業員にウォズプランという形で、彼の所有分から1人2,000株まで買えるようにした。ジョブズやマークラは、この行為は間違っていると非難したが、ウォズは「おかげで家を買ったり、子供を大学に通わせたりできたと多くの感謝を受けた。やった甲斐があった」と語っている。
USフェスティバルを主催したウォズは、推定2000万ドルを損失したが、本人は大満足しているそうである。
2009年よりアメリカでトヨタ車での事故が多発し、トヨタ車に欠陥があるとした騒動に関し、2010年2月2日、2010年モデルのプリウスでクルーズコントロールを使用して高速道路巡航中に、アクセルに触れていないのに時速156kmに加速した経験を述べ、2010年モデルのプリウスはリコール対象車ではないが、ウォズニアックはソフトウェアに問題があると主張、また、「苦情を言ったのにトヨタとNHTSAから2ヶ月間何の返事もない」と述べた[2]。その後、「クルーズコントロールを使って速度を上げたら、ある速度で加速を始め、どこまでも上がるようだったのでブレーキを掛けた」と述べ、またプリウスを9台持っているとしてトヨタのファンであると語っている[3]。なお、2011年に、米国運輸省は、調査の結果、トヨタ車に欠陥がないことを最終報告した。
2010年にテレビドラマ『ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則』シーズン4第2話に本人役でゲスト出演する。
脚注
- ↑ ウォズニアック氏、ジョブズ氏死去でアップルに「一抹の不安」--TechCrunch報道
- ↑ アップル共同創業者のトヨタ車にも不具合-リコール対象外のプリウス Bloomberg日本版2010年2月3日。Mehul Srivastava 記者執筆。編集長はYoung-Sam Cho。
- ↑ テンプレート:Cite news
参考文献
- 『アップルを創った怪物-もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』(原題:iWoz)スティーブ・ウォズニアック著,2008 (ISBN 9784478004791)
- 『Apple Design』- Paul Kunkel,1997
- 『Apple Confidential 2.0』- Owen W. Linzmayer,2004
- 『Apple Confidential』- Owen W. Linzmayer,1999(邦題:アップル・コンフィデンシャル)
関連項目
外部リンク
- woz.org ウォズニアックの公式サイト