ジョージ・レーゼンビー
テンプレート:ActorActress ジョージ・レーゼンビー(George Lazenby, 1939年9月5日 - )は、オーストラリア出身の俳優。2代目ボンド役が有名であり、歴代ボンドのなかでも唯一、ヨーロッパ圏以外の出身の俳優でもある。身長188cm。
略歴
生い立ち
レーゼンビーは1939年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤンに生まれた。高校を卒業後、キャンベラにあるモリス・モーター社で車のセールスマンをした。スポーツではスキーが得意で、スキーのインストラクターをしながら、いくつかの競技に出場した。また地元バンドにも所属し、ベースギターも演奏していた。そしてオーストラリア軍に所属し、軍曹の階級を得てマーシャル・アーツのインストラクターをした。除隊後、1964年にロンドンに移り住み、中古車のセールスマンを続けていたが、間もなくファッションモデルに転進、雑誌PB等の売れっ子モデルとなる。
俳優でなかったため、この当時の映像作品への出演はなかったが、チョコレートバーのテレビCMで脚光を浴びる。のちに『女王陛下の007』で監督をするピーター・ハントによれば『あのCMのおかげで誰もがレーゼンビーの顔を知っていた』[1]という。
二代目007
ショーン・コネリーが映画007シリーズの主演降板を表明したのを受け、イオン・プロダクションは数百人からなる二代目007候補を検討した。結果、レーゼンビーがスクリーンテストに合格した。アクションの上手さをピーター・ハント監督に買われたことが要因だった。1969年にシリーズ第6作『女王陛下の007』でジェームズ・ボンド役に抜擢される。2人のプロデューサーのうち、アルバート・R・ブロッコリよりもハリー・サルツマンが強くレーゼンビーを推した。
しかし、全く演技経験がなくイギリス英語が流暢に話せないレーゼンビーは、撮影所ではトラブルメーカーの烙印を押された。スター気取りの態度の悪さから共演者やスタッフからの評判も芳しくなく、Qを演じたデスモンド・リュウェリンも「レーゼンビーは、スターらしい振る舞いとは遅れてスタジオ入りすることだと思っていたようだ」という趣旨の発言をしている[2]。ロケ撮影の合間には禁止されていたスキーで勝手に遊ぶなどして咎められたり、M役のバーナード・リーを馬で追い回し、結果としてリーが花壇で転倒、けがを負ってしまうなどのトラブルを起こし、ブロッコリを激怒させた[3]。共演のダイアナ・リグとの不仲も書き立てられた。
ブロッコリの妻ダナが関係者一同を招待したパーティを開いた際にもトラブルが起きた。ダナは招待状を送る代わりに、招待リストを壁に張ってキャスト、スタッフ全員を招待していた。当然レーゼンビーも招待されていた。しかし、レーゼンビーはパーティに参加せず、会場の扉の外で不機嫌に振舞った。このときレーゼンビーは「僕は招待されてない。僕はスターだぞ(招待するならきちんとした招待状をよこせ)」とダナに食ってかかった。ブロッコリは「君自身や私がスターだと言い張ったところで無意味だ。観客が認めてくれて、はじめてスターになれる」と諭した[4]。レーゼンビーはブロッコリの教訓よりも、自分のエージェントの助言に従うことを優先させ、製作途中でギャラアップを要求し、結局この1作で降板した。ブロッコリは撮影中から「この映画はレーゼンビーにとって最初で最後の007になるだろう」とコメントしている。[5]
後年、彼はボンド降板に関して「若さゆえの未熟さ、傲慢さが自分にはあった。あの時、私は輝かしいチャンスと失われていくチャンスを同時に目の当たりにした。」「もしもあの時、自ら降板していなければあとの7本も私が演じていただろう。」と語っている[6]
ただし、レーゼンビー側に続投の意思があってもコネリーが呼び戻された可能性は高い。事実、本作の全世界興収が2400万ドルと前作(4400万ドル)・前々作(5600万ドル)に比べ大幅に減少したことから、ユナイテッド・アーティスツ社の重役デイヴィッド・ピッカーが次作『007 ダイヤモンドは永遠に』の主演にショーン・コネリーを復帰させようと躍起になった[7]。イオン・プロが3代目ボンド役として選んだジョン・ギャヴィンを、ピッカーは拒絶し却下。制作会社イオンよりも出資をしている配給元UA社の方が権限も強く、ピッカーはコネリーの要求を全面的に受け入れ、巨額のギャラを払いコネリーを呼び戻した[8]。レーゼンビーの支持者だった監督のハントもこれ以降、007のスタッフから外されている。プロデューサーのブロッコリも「後になってレーゼンビーが電話で、またボンド役をやりたいと言ってきた。しかし私は無理だと答えるしかなかった」と述懐している[9]。ロジャー・ムーアによれば、後年ティモシー・ダルトンやピアース・ブロスナンらが主役交代する節目の時期に、レーゼンビーはブロッコリに「俺はあいてるよ」と伝えてきたという[10]。
ロジャー・ムーア時代はムーアが2代目ボンドと勘違いされるほど存在感が薄かったが、原作ファンによる作品の再評価や、一本しか出演していないプレミア感から、年を重ねるごとに存在感を増している。
2014年現在、歴代最年少のボンドである。
007後
『女王陛下の007』ではスキーを得意としていながら、スキーシーンで主演ゆえスタントマンの使用を強制されてしまったものの、元来の運動神経の良さを買われ、1973年に香港のゴールデン・ハーベスト社の名プロデューサー、レイモンド・チョウ(鄒文懐)の招きで、彼の製作するブルース・リーの『死亡遊戯』に出演するめどが立った。この作品はGH社傘下のリーのスター・プロであるコンコルド・プロダクションと、米ワーナー・ブラザーズとの合作『燃えよドラゴン』より前に制作決定したため、リーは香港を除く国際市場ではまだ、映画スターと呼ばれる域に達しておらず、イギリスの植民地である香港映画へのレーゼンビーの出演は事実上の「都落ち」だった。レーゼンビーによれば、ボンド役降板の際にブロッコリから「おまえはマカロニ・ウェスタンどまりだ」と揶揄された[11]というが、香港のクンフー映画の脇役出演も似たようなものであった。リーの急死により、1978年に追加撮影され完成された『死亡遊戯』は脚本も大幅に変えられたことから、オリジナルのキャストも一新され、レーゼンビーの出演も叶わなかった。
だがそれ以前に、『死亡遊戯』出演が流れた代わりとして、レーゼンビーはゴールデン・ハーベストとの間に3本の映画の出演契約を取りつけた。マーシャル・アーツの特技を活かし、ゴールデン・ハーベスト製作の香港映画『暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー』(1974年、ファン・フェン監督)でアンジェラ・マオ(『燃えよドラゴン』)と共演、この作品の原題は007の当時の中国題名『鐵金剛』作品を思わせる『鐵金剛大破紫陽觀』である。続いて香港・オーストラリア合作映画『スカイハイ』(1975年、ブライアン・トレンチャード・スミス、ジミー・ウォング共同監督)で悪役を演じてジミー・ウォングとも共演、この作品でレーゼンビーはスタントマンを使わず、自ら火だるまになってジミー・ウォングとの格闘シーンに臨んだ。両作品とも興行的には成功しており、彼のアクションが存分に生かされた。
それ以降はアメリカ・サンタモニカに移り住み、レーサーをした。俳優としてはB級作品でしばしば、ボンドのパロディを演じている。特に『0011ナポレオン・ソロ2』(1983年)では、『JB』の役名でタキシードを着てアストンマーチンに乗るイギリスのスパイを楽しげに演じた。近年は、DVD『女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像インタビュー』で姿を見せ、やや老け込んだ感はあるが、その存在をファンにアピールしている。英米で催される映画ファン向けのイベントにおいて、シリーズの元出演者のサイン会が企画される際にも、ボンドを演じた俳優としては唯一、頻繁にその顔を見せる。
現在は俳優業のかたわら、実業家としての活動をしている。不動産投資などをしてハワイ、カリフォルニアやオーストラリアの牧場、香港の建物を多数所有している。プライベートでは航海、カーレース、オートバイレース、テニス、ゴルフを楽しんでいるという。[12]
私生活
彼の最初の妻クリスティーナ・ガネットとの間に1男2女をもうけた。このうち、1人の娘は脳腫瘍のため死別している。
2002年にレーゼンビーは元テニスプレーヤー、パム・シュライバーと再婚し、65歳で再び3人の子供をもうけた(うち2人は双子)が、2008年に離婚した。カリフォルニア高等裁判所の法廷では親権争いが繰り広げられ、パムは、レーゼンビーはアルコール依存症で、幼児の子供にビールを与えたり、酔って公共の場で反ユダヤ的言動を大声で行ったりした、2006年には同居を続けるかどうか議論していると、もし子供を取り上げるなら殺すと脅した、裁判の前年には腕に打撲傷を与えられ、その2ヶ月後には耳をよじられたなどと証言[13]。雇われていたベビーシッター3人も、レーゼンビーはしょっちゅう怒っていて手がつけられなかったと証言した[14]。これに対しレーゼンビーは、パムは毎晩処方された睡眠剤に鎮痛剤とラムかウォッカを混ぜたカクテルを飲み、いつも前後不覚に陥っていた、いっしょにゴルフのラウンドをしていたとき、クラブを頭に投げつけられた、彼女は長身のアスリートで自分より22歳も若いのに、などと反論[15][16]。パムがベビーシッターなしでは子供を世話できないとも証言した[17]。前妻のクリスティーナ・マスターも出廷して、レーゼンビーは彼女が妊娠5ヶ月で子供が癌で死にかけているとき、彼女の鼻を殴って骨折させ、離婚したいと言うと殺すと脅したと証言[18][19]。レーゼンビーとクリスティーナの娘のメラニー・レーゼンビーも、「父に苦しめられ、屈辱を与えられ、精神的に傷つけられ、感情的におびえさせられ、便器に頭を押し入れられ、門限に遅れたら銃を向けられた」と証言した[19]。これらに対し、レーゼンビーは事実無根だと反論した[18][19]。また、長年レーゼンビーの子供であることを隠してオーストラリアで生活していたジェニファー・レーゼンビーは、そのことを公表し、父は良い人間だと明言した[20]。高裁はパムに暫定的親権を与え、レーゼンビーには週末子供に面会する権利を与えた[21]。その後、レーゼンビーはパムと婚前契約をしていた月1万ポンドの養育費支払いを取り消すよう訴えた[22]。
主な出演作
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1969 | 女王陛下の007 On Her Majesty's Secret Service |
ジェームズ・ボンド | |
1972 | 死んでいるのは誰? Chi l'ha vista morire? |
フランコ | |
1974 | 暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー The Stoner |
ジョセフ・ストーナー | |
1975 | スカイ・ハイ The Man from Hong Kong |
ジャック・ウィルトン | |
密室の人妻襲撃事件 Is There Anybody There? |
ジョン | テレビ映画 | |
1977 | ケンタッキー・フライド・ムービー The Kentucky Fried Movie |
建築家 | |
1978 | ハイジャック'78/米三大都市核攻撃全滅計画 Evening in Byzantium |
ロジャー・トロイ | テレビ映画 |
1981 | ラスト・ハーレム/美女学園に隠された愛欲の罠 L'ultimo harem |
Prince Almalarik | |
1983 | 0011ナポレオン・ソロ2 Return of the Man from U.N.C.L.E. |
J.B. | テレビ映画 |
1986 | ネバー・トゥー・ヤング Never Too Young to Die |
ドリュー | |
1988 | ヘル・ハンター Hell Hunters |
ハインリッヒ | |
1992 | ビホルダー/狂気の暴走 Eyes of the Beholder |
ジャック・ウェイマン | |
1993 | エマニュエル 愛欲のチベット Le secret d'Emmanuelle |
マリオ | テレビ映画 |
ゲティスバーグの戦い/南北戦争運命の三日間 Gettysburg |
ジョンストン・ペティグルー | ||
1996 | トゥモロー・ネバー・デッド/007は殺しの暗号 Fox Hunt |
Chauncey |
脚注
外部リンク
テンプレート:ジェームズ・ボンド- ↑ 女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像『メイキング・オブ・女王陛下の007』
- ↑ 『究極の007大全集』リーフェイファー他著、シンコーミュージック
- ↑ 女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像『メイキング・オブ・女王陛下の007』
- ↑ 女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像『メイキング・オブ・女王陛下の007』
- ↑ ロジャー・ムーア―爽やかなダンディ,黄金のクール・アクション (シネアルバム〈58〉1978年 芳賀書店)
- ↑ 女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像『メイキング・オブ・女王陛下の007』
- ↑ 『ジェームズ・ボンドへの招待』ジェームズ・チャップマン著、徳間書店
- ↑ 『ジェームズ・ボンドへの招待』ジェームズ・チャップマン著、徳間書店
- ↑ 『究極の007大全集』リーフェイファー他著、シンコーミュージック
- ↑ 『Bond on Bond』ロジャー・ムーア著、篠儀直子訳 スペースシャワーネットワーク刊
- ↑ 『究極の007大全集』リーフェイファー他著、シンコーミュージック
- ↑ 参考文献:アメリカWikipedia George Lazenby の内容を要約
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 18.0 18.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 19.0 19.1 19.2 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news