ジョン・ケリー
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:政治家 ジョン・フォーブズ・ケリー(テンプレート:Lang-en, 1943年12月11日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第68代アメリカ合衆国国務長官。マサチューセッツ州選出上院議員、2004年アメリカ合衆国大統領選挙の民主党の大統領候補、アメリカ合衆国上院外交委員会委員長を歴任。信仰する宗教はカトリック教会。
目次
生い立ち
コロラド州オーロラのフィッツシモンズ陸軍病院で生まれた。父リチャード・J・ケリー[1]は、第二次世界大戦中は陸軍航空隊のテストパイロットで、結核の治療で同病院に入院した。ケリー一家は彼の誕生後マサチューセッツ州に転居した。同時にケリー一家はチェコから移住したカトリックに改宗したアシュケナジムだった[2]。母はローズマリー・フォーブス・ケリー(フランス系でアイルランド系の血も引く)で、フォーブス家のジェームズ・グラント・フォーブスの孫娘だった。
ケリー一家はたびたび転居したため、彼は複数の学校に通った。11歳の時にはケリー一家はベルリンで暮らしたが、彼はスイスの寄宿学校に入学した。1957年には父リチャードがノルウェーのアメリカ大使館に勤務したが、ケリーはマサチューセッツに戻り、マサチューセッツ州ニュートンの寄宿学校フェセンデン・スクールに通った。翌年ニューハンプシャー州コンコードのセント・ポール・スクールに入学し、1962年に卒業した。学生時代はアイスホッケーやラクロスを行い、またエレクトラズというバンドでベースを弾いた。バンドは1961年にアルバムを500枚プレスし、そのうちの一枚が2004年にeBayのオークションで2,551ドルで落札された。
ケネディ大統領との出会い
1962年にケリーはテッド・ケネディの最初の上院議員選にボランティアとして参加した。その夏、彼はジャネット・ジェニングス・オーチンクロス(ジャクリーン・ケネディの異父姉妹)とデートした。8月26日に彼女はケリーを自宅に招いた。ケリーがケネディ大統領に出会ったのはその後だった。
ケリーはケネディにイェール大学に入学することを話すと、ケネディはライバル校のハーバード大学出身だったため顔をしかめた。その後、ホワイトハウスの写真家はナラガンセット湾でケネディの家族と航海するケリーの写真を撮影した。彼らは数週間後1962年9月ロードアイランド州の沖合でのアメリカズ・カップで再会した。ケリーは母方のフルネームであるジョン・フォーブズ・ケリー(John Forbes Kerry)のため、「JFK」でもある。
イェール大学
彼は1962年にイェール大学に入学した。専攻は政治学で、1966年に卒業した。彼は二年生の時にイェール政治ユニオンの会長になった。そこで彼は公民権運動やニューフロンティア・プログラムなどについて論じた。歴史学の教授ローリン・オスターワイスの指導の下全国学生討論コンテストで優勝した。
彼は友人ジョン・シャタックに誘われ1965年4月にスカル・アンド・ボーンズに参加した。
兵役
ケリーは1966年2月18日に海軍に入隊した。8月22日にロードアイランド州ニューポートの海軍士官訓練学校に入学した。その後10月19日に現役勤務を命じられ、12月16日に辞令を受理した。
1967年6月8日にミサイル・フリゲートグリッドレイ (USS Gridley, DLG-21) の技術士官として着任、1968年2月9日にグリッドレイは西太平洋に向けて出航した。翌日ケリーはベトナムでの哨戒艇任務を志願した。グリッドレイはニュージーランドのウェリントン、フィリピンのスービック湾から北ベトナムのトンキン湾で航空母艦の支援を行い、接敵することもなく6月6日にはカリフォルニア州ロングビーチに帰港した。
10日後の6月16日にケリーは中尉に昇進し、哨戒艇の艇長として訓練を受け、12月6日には南ベトナムのカムラン湾で高速哨戒艇PCF-44の艇長として任務に就いた。この間、12月2日夜間から3日朝にかけて、敵に遭遇し、ケリーは左肘上にM-79グレネードの破片を受けた。彼を手当てしたルイス・レットソン医師は彼のクルーが衛生兵にケリーのことを「マサチューセッツからの次のJFKだ」「いつか大統領になる」と話していたことを思い出す。この負傷でケリーは初めてのパープルハート章を受章し、その後任務に復帰した。
ケリーはイェールでのクラスメート、リチャード・パーシングを含む5名の友人をベトナムで失った。1969年2月28日にボーデ川で再び榴散弾の破片を左腿に受け、二度目の名誉負傷章を得た。医師は破片を切除するのに大きく切開せずそのまま縫合処置をしたため、彼は未だに左腿に破片を持っている。
ベイハプ川からの運河を他の哨戒艇3隻と共にパトロールしていたが、その水路は南ベトナム解放民族戦線の拠点だった。他の哨戒艇がドンクン川の近くで待ち伏せされたとの報告を受け、それらの支援に向かったとき、解放戦線からのB-40ロケット弾の砲撃をキャビンに受けた。通常であれば川岸へ砲撃を行い次に回避行動を取るのをケリーは副長のサンダスキーに艇を直接岸の待ち伏せに乗り上げさせるように命令した。この行動が勇気あるものかそれとも無鉄砲だったのか異論があるが、事実は明白である。艇が岸に乗り上げるとベトコンはグレネード・ランチャーを抱えて茂みに飛び込んだ。機銃手のトミー・ベロドウはM-60機銃を敵の足に撃ち込んだ。ベロドウの機銃は発射後給弾不良を起こし、マイケル・メディロスが銃撃しようとしたができなかった。
ケリーはメディロスと敵兵の死体を探し、艇に戻りロケットランチャーを取った。監督官は艇を浜に引き上げたことでケリーを軍法会議にかけるべきか、乗組員を救ったことで彼にメダルを与えるべきであるかどうか分からないとジョークを言った。結局ケリーは銀星章を受章した。
3月13日に彼の艇は機雷に接触すると共に激しい銃撃を受けた。左上臀部に榴散弾の破片を受け、回復まで二日を要した。この負傷と、グリーンベレー隊員ジェームズ・ラスマンの救出活動でケリーは三度目の名誉負傷章と青銅星章を受章した。
ケリーは三度の負傷後に帰国した。彼のベトナムでの任務は4月前半に終了し、その後11ヶ月をアメリカ本国で勤務した。彼は1966年2月から1970年3月まで4年間軍で勤務した。1970年に海軍予備役となりその後1972年には待機予備役に編入され、1978年に名誉除隊した。
批評家は彼の最初の負傷を、バントラシン剤と包帯による治療のみで任務に復帰したことで、名誉負傷章に相当しないのではないかと批判している[1]。
反戦活動
反戦ベトナム帰還兵会(Vietnam Veterans Against the War, VVAW)のメンバーおよびスポークスマンとして、ケリーは上院軍事委員会の公聴会で証言した。彼は、1971年1月31日から2月2日までミシガン州デトロイトで行われたVVAWの冬期間兵員調査に関して証言した[2]。
勲章投げ捨て事件
1971年4月23日、ケリーは他の退役軍人と共にワシントンD.C.の国会議事堂ビルで抗議の意味を込めてメダルとリボンを投げつけた。このデモンストレーションは退役軍人がベトナム戦争を不正なものであると考えていることを示すために行われた。後に彼の政治経歴でこの事件は論争を巻き起こした。
ケリーは二人の退役軍人のメダルと共に、フェンスに彼の略綬を投げつけた。略綬とメダルの違いは、前者は制服の胸の上に付けられた色の付いた棒である一方、後者は特別の場合に装着するリボンの付いた金属メダルである。
1971年11月6日にケリーはワシントンD.C.のテレビ局からインタビューを受け、「6、7、8、9個のメダル、いくつ返したか思い出すことができない」と答えた。
ケリーの自宅にメダルが現在も飾られていることが判明し、事件は論争になった。飾られているメダルがオリジナルだった場合、1971年に国会議事堂に投げつけたものは彼のメダルではなかったことになる。その後数年にわたって、政敵は事件がケリーの不正確さの実証になると言い、この出来事を利用した。ケリーは、何が起こったかに関して常に明らかだったと答えている。
当時からのニュースはケリーが他の二人から渡されたメダルと共にリボンを、フェンスを越えて投げつけたと伝えている。ケリーは数年に渡ってその話を一貫して語っている。批評家は1971年のテレビインタビューでケリーが彼のメダルを投げつけたと語ったことを質問している。ケリーは「これは偽の論争です」とABCのグッドモーニング・アメリカで語った[3]。
反戦ベトナム帰還兵会 (VVAW) の1971年ミーティング
1971年11月12日から15日までVVAWミーティングがミズーリ州カンザスシティーで開催された。そこで、ベトナム戦争を継続する政府要人を暗殺し、クーデターでベトナム和平をめざすと言う提案がなされた。『ボストン・グローブ』誌のリポート[4]。
ケリーのスポークスマン、マイケル・ミーハンは「ケリー上院議員は、カンザスシティー会議に出席したのを覚えていません」と、グローブ誌の質問について回答した。ケリーはミーティングが開催された11月の4ヶ月前、7月には同団体の活動から離れていたため、同会議には出席していないと言われてきた。しかしながらFBIの記録によれば、ケリーは同会議の議長を務めたとあり、会議での対立に破れ直後にケリーは辞任したとなっている。
政府要人暗殺の提案は反戦活動家スコット・カミルによってなされた。カミルへの電話インタビューで彼は「会議でケリーを見かけた記憶がない」と語った。会議で要人暗殺を話し合ったことについて当局は訴追をしなかったが、提案者のカミルは1972年8月のマイアミでの共和党全国大会襲撃計画を立案したとして仲間の反戦帰還兵7人とともに逮捕され、裁判にかけられた。
政治家
ケリーは最初の娘アレクサンドラの誕生とほぼ同じ頃、1973年9月にニュートンのボストンカレッジの法科大学院、ボストンカレッジ・ロー・スクールに入学し、2番めの娘ヴァネッサが生まれたのと同じ年、1976年5月に卒業した。同じ年に友人のK・ダン・ギフォードと共同で「キルバート&フォーブズ」という名のマフィン店をボストンのクィンシー市場に開いた。 1982年、マサチューセッツ州副知事。その後1982年にケリー副知事はギフォードの株を買い取り、スタンリーおよびリンダ・クラインにそれらを売った。数年後にはクラインに自分の持ち株を譲り、店は現在「マギーズ・スイーツ」として存在する。フリートセンターの民主党大会中に「ジョン・ケリー・チョコレートチップ・クッキー」のギフトバッグ千個を供給した。
上院議員
1984年、マサチューセッツ州選出上院議員に当選。
2004年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙を勝ち抜き党指名候補となるが、本選挙では現職のジョージ・W・ブッシュ大統領に敗北した。なお、この時、イラク戦争への対応の違いから、フランスとの関係が悪化していた。これに乗じた共和党は、ケリーがフランス語が得意であることをネガティブ・キャンペーンに利用した。ケリーは批判をかわすために、以後、フランス語を長い間封印することとなった[3]。
2006年に大学での講演で「勉強をしないとイラクで立ち往生する羽目になる(get stuck in Iraq)」と発言し、兵士を学歴差別したと物議を醸した。この発言についてケリーは「兵士ではなくブッシュ大統領を批判したつもりだったが言葉が足りなかった」と弁明している。
2008年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙では、形勢がまだ定まらない2008年1月10日の段階でバラク・オバマ候補の支持を表明した[4]。
一期目のオバマ政権では、国務長官になることを望んでいたが[5]、ヒラリー・クリントンが就任したことで断念。大統領特使として中東諸国やアフガニスタン、パキスタンを訪問し、政権の意向を非公式に伝達する役割を担った[6]。
2012年12月、再選を果たしたオバマ大統領より、「アメリカの外交を導く人として完璧な選択だ」と言われ[7]、政権第二期目の国務長官に指名される。2013年1月29日、アメリカ合衆国上院外交委員会で全会一致の承認後、本会議では賛成94反対3で承認。2月1日、第68代国務長官に就任した。
国務長官
人となり
ケリーは身長6フィート4インチ(1.94m)で、「ひょろ長いヤンキー "Lanky Yankee."」と呼ばれた。旧友および家族は彼をジョニーと呼んでいる。若い頃スイスとフランスで過ごしたため、流暢なフランス語を話す。サーフィン、ホッケー、狩猟およびベースの演奏が趣味。サンシャインという黄色のカナリアを飼っている。好物はチョコレートチップ・クッキー、星座は射手座。 彼は1970年代の初めにジョン・レノンに会ったことがある。
好きな映画は『ジャイアンツ』と『カサブランカ』。愛読書はジェームズ・ブラッドリーの『Flags of Our Fathers』およびスティーヴン・アンブローズの『Undaunted Courage』。2003年のキャンペーン中、彼はクライド・プレストウィッツの『Rogue Nation』とバーバラ・アーンレイチ『Nickel and Dimed』を読んだ。
2003年には前立腺癌と診断され、治療は成功した。
1970年にジュリア・ソーンと結婚、2人の子供をもうけた。アレクサンドラ(1973年 - )(ロサンゼルスの映画学校を2004年6月に卒業)およびヴァネッサ(1976年 - )(祖父と同じくフィリップス・アカデミー卒業、イェール大学、ハーバード・メディカル・スクール、そしてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業)ヴァネッサは父親の大統領選挙戦において活動的だった。
夫婦は1982年に別居、1988年7月25日に離婚した。この婚姻の無効は1997年にカトリック教会によって正式に認められた。
再婚までの間、ケリーは女優モーガン・フェアチャイルドおよびキャサリン・オクセンバーグと親しかった。
ケリーはペンシルベニア州の上院議員でありハインツ社のオーナー、H・ジョン・ハインツ三世の未亡人テレイザ・シモエス・フェレイラ・ハインツと1995年5月26日にマサチューセッツ州ナンタケット島で結婚した。テレイザはジョン・ハインツ三世が1991年に飛行機事故で死亡した後5.5億ドルの莫大な遺産を相続した。彼女には前夫との間に3人の息子ジョン・ハインツ・ジュニア、アンドレ・ハインツ、クリストファー・ハインツがいる。現在、ケリーは最も裕福な上院議員で、妻と合わせた総資産は約10億ドルと推測される。
ケリーには弟カメロン・ケリーおよび2人の姉妹、ダイアン、ペギーがいる。
なお2004年の大統領選を争ったジョージ・W・ブッシュ第43代大統領は遠戚にあたる[8]。一時両者とも秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」に所属していたことも話題となった。
脚注
- ↑ 2004年2月2日付『ボストン・グローブ』によると、ジョン・ケリーの曾祖父はチェコのモラヴィア地方の南部にあるホルニボネソフ出身のアシュケナジムである。祖父フリッツ・フレンケル=コーン(Fritz F Kohn)は会計士としてウィーンに移住した。1905年5月18日、生活のためにウィーンから渡米した32歳のフリッツはフレデリック・A・ケリー(Frederick A Kerry)と改名した。ケリーは会計士としてシカゴに住居し、同じアシュケナジムのシアーズ・ローバックなどの相談役を務めた。父リチャードは1915年にフレデリック・A・ケリーの三男として誕生した。1921年、祖父は事業の失敗のためにボストンのホテルの一室で拳銃で自殺したと述べている(The Kerry Family's Hidden Jewish Past)。
- ↑ 同じく『ボストン・グローブ』より。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 読売オンライン、CNN(英語)
- ↑ ケリーがようやく手にした国務長官の座 ジーン・マッケンジー Newsweekニューズウィーク日本版 2013年2月12日号
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ケリーがようやく手にした国務長官の座 ジーン・マッケンジー Newsweekニューズウィーク日本版 2013年2月12日号
- ↑ ジョージ・W・ブッシュとジョン・ケリーの家系図
関連項目
外部リンク
公式
- JohnKerry.com—John Kerry's political web site
- Kerry's military records—from JohnKerry.com via the Internet Archive
- John Kerry for Senate-Official 2008 senatorial re-election campaign website
- John Kerry's Online Office—Official senatorial site
- Campaign for Our Country—PAC led by Kerry
メディア
- Gibbs, Nancy and Waller, Douglas, What Kind of President Would Kerry Be?, Time, February 9, 2004
- Klein, Joe, "The Long War of John Kerry: Can a Massachusetts Brahmin become President?", The New Yorker, December 2, 2002.
- Kranish, Michael, John Kerry: Candidate in the making, The Boston Globe, June 15, 2003
- The 2004 Debates
- The New Soldier, John Kerry's book at FreeKerryBook.org
- Profile: John Kerry, BBC News
- Frontline: the choice 2004—Thorough two-hour special comparing Kerry and Bush
- Black Political Task Force endorses John Kerry, 1984 on the WGBH series
- Ten O'clock News
- Researcher Alleges Potential Plagiarism in 11 Passages of Kerry's Writings
- John Kerry's complete 1971 statement before the Senate Foreign Relations Committee from National Review
- Selections from John Kerry's 1971 statement before the Senate Foreign Relations Committee
- This Land! Popular viral video featuring John Kerry, 2004.
- Healthlink
- Kerry Interview on The Hour with George Stroumboulopoulos
- Obama rally with John Kerry and Others MP3 on February 2, 2008 in Sacramento, CA
情報
- About.com: Genealogy - Ancestry of John Forbes Kerry
- Statement on behalf of Vietnam Veterans Against the War—April 1971.
- John Kerry's Senate hearing testimony to the Senate Committee on Foreign Relations in 1971 (PDF file).
- Voting history for Senator John F. Kerry of Massachusetts in the 108th Congress
- The BCCI Affair, A Report to the Committee on Foreign Relations, United States Senate, by Senator John Kerry and Senator Hank Brown, December 1992
- Political donations made by John Kerry
- Snopes.com: "Service Mettle"—Snopes.com on Kerry's Vietnam service medals
- Tour of Duty—excerpt from Brinkley's book about Kerry's Vietnam service
- Irish Catholic or Czech Jew?—Kerry's long lost Jewish ethnic ancestry
- John Kerry's letter to his parents about Richard Pershing's death—1968.
- Profile from SourceWatch Congresspedia
参考文献
- Brinkley, Douglas, Tour of Duty: John Kerry and the Vietnam War, William Morrow & Company, 2004. ISBN 0-06-056523-3
- Kerry, John and Vietnam Veterans Against the War, The New Soldier, MacMillan Publishing Company, 1971. ISBN 0-02-073610-X
- Kerry, John, The New War: The Web of Crime That Threatens America's Security, Simon & Schuster, 1997. ISBN 0-684-81815-9
- Kerry, John, A Call to Service: My Vision for a Better America, Viking Press, 2003. ISBN 0-670-03260-3
- Kerry, John and Teresa Heinz Kerry, This Moment on Earth: Today's New Environmentalists and Their Vision for the Future, PublicAffairs, 2007. ISBN 978-1-586-48431-6
- Kranish, Michael, Brian C. Mooney, and Nina J. Easton. John F. Kerry: The Complete Biography by The Boston Globe Reporters Who Know Him Best, PublicAffairs, 2004. ISBN 1-58648-273-4
- McMahon, Kevin, David Rankin, Donald W. Beachler and John Kenneth White. Winning the White House, 2004, Palgrave Macmillan, 2005. ISBN 1-4039-6881-0
- O'Neill, John E. & Corsi, Jerome R. Unfit for Command: Swift Boat Veterans Speak Out Against John Kerry, Regnery Publishing, 2004. ISBN 0-89526-017-4
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