クルト・シュシュニック
クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg | |||
ファイル:Kurt Schuschnigg 1934.jpg |
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任期 | 1934年7月25日 – 1938年3月11日 | ||
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出生 | 1897年12月14日 テンプレート:AUT1867、リーヴァ・デル・ガルダ | ||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:Flagicon オーストリア、インスブルック |
政党 | キリスト教社会党
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クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック(テンプレート:Lang-de, 1897年12月14日 - 1977年11月18日)は、オーストロファシズム期の政治家。1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合され、彼は逮捕・拘束された。
一般には、クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・フォン・シュシュニック (Kurt Alois Josef Johann Edler von Schuschnigg) として知られているが、オーストリアでは1919年に爵位は撤廃されたため、現在では "von" はつけないのが一般的。
生い立ち・政治家へ
彼はオーストリア・ハンガリー帝国のトレント近郊リーヴァ・デル・ガルダ Riva del Garda am Gardasee (現在南チロル)で生まれ、第一次世界大戦中にオーストリア・ハンガリー帝国の軍隊で戦った。戦後、シュシュニックはインスブルックで弁護士となる。
彼はキリスト教社会党に加わり、1927年に下院議員に選出された。 1932年にエンゲルベルト・ドルフースが法務大臣としてシュシュニックを指名した。1933年には教育大臣となる。ドルフースが1934年に暗殺されると、シュシュニックはドルフースの職を継いだ。彼は1936年10月に護国団(Heimwehr, 国防市民軍)を解散した。
アンシュルス
1938年2月にベルヒテスガーデンでアドルフ・ヒトラーは、シュシュニックにオーストリア・ナチス党指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを入閣させるよう強制して、シュシュニックも一旦はこれを受け入れた。
だが、シュシュニックは24歳以上の国民によるドイツとの併合の賛否を問う国民投票を企図していた。オーストリアのナチ支持者はほとんど10代か20代前半の若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるとシュシュニックは踏んでいた。シュシュニックはさらにドルフースが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉して国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。またイタリアのベニート・ムッソリーニにこの案の支持を求めたが、ドイツとの関係悪化を恐れるムッソリーニからは賛同は得られなかった[1]。
ヒトラーはシュシュニックの国民投票案に激怒し、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル大将にオーストリア侵攻計画「オットー計画」の実行準備を開始させた[2]。
3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊が国境に出動。オーストリア政府はヒトラーやヘルマン・ゲーリングから国民投票の延期、シュシュニックの首相辞任、ザイス=インクヴァルトの首相就任、ドイツに秩序維持の援助を求めることを要求された。大統領ヴィルヘルム・ミクラス(de)は拒絶するように命じたが、シュシュニックはドイツとオーストリアに住むドイツ人同士が戦うことは道義的にも実際的(軍事力の差)にも無理があると考えてドイツ政府の要求を呑むことを決めた。同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ミクラス大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した[2]。シュシュニックの辞任前の最後の演説は次の通りであった。
首相となったザイス=インクヴァルトはただちにゲーリングからの指示でドイツ軍にオーストリア進駐を要請した。3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック大将指揮下でドイツ軍がオーストリアへ無血進駐を開始した。夜には首都ウィーンにドイツ軍が入った。市民はドイツ軍を熱狂的に歓迎した[3]。3月13日にザイス=インクヴァルトは合併法(第1条で「オーストリアはドイツ国の一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラスが署名を拒否したため、ザイス=インクヴァルトの署名だけで合併法が発布された[3]。。
シュシュニックはウィーンを占領したドイツ軍によって拘束された(ただし、実際にはミクラス大統領は最後まで最後通牒を拒否したため、ドイツ政府の指示を受けたザイス=インクヴァルトにより職権を剥奪されている)。
1938年4月10日にはドイツのオーストリア併合について賛否を問う国民投票(選挙権20歳以上)が実施され、ドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票があった[4]。
彼自身はハプスブルク復活による独墺合邦(アンシュルス)を望んでいたとも言われており、ナチスそのものに対しては嫌悪感を抱いていたが、ドイツとオーストリアは将来的には統一されるべきだという信念を抱いていた(これは当時のオーストリアの左右両派に見られた発想であり、決して彼特有のものではない)。このため、ナチス・ドイツに対する強硬策を打ち出すことには躊躇する傾向があったとも言われている。また、オーストリアを自国の衛星国と見ていたイタリアのムッソリーニが、一転してドイツとの連携強化のためにドイツのオーストリア併合を容認する姿勢に方向転換したことも誤算であった。
シュシュニックはしばらく自宅軟禁された後に、1938年の秋にザクセンハウゼン強制収容所に収容され、その後ダッハウ強制収容所に移された。
戦後
彼は1945年5月4日にアメリカ軍によって解放された。その後アメリカに移住し、1948年から1967年までセントルイス大学で政治学の教授を務めた。彼は1977年にインスブルックで死去した。
参考文献
- 阿部良男著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、2001年、柏書房、ISBN 978-4760120581