ガイウス・マリウス
テンプレート:Infobox 共和制ローマ ガイウス・マリウス(テンプレート:Lang-la、紀元前157年 - 紀元前86年1月13日)は、共和政ローマ末期の軍人、政治家。同名の祖父・父と区別してガイウス・マリウス・ガイウスフィリオ・ガイウスネーポ(Gaius Marius C. f. C. n.)、あるいは息子である小マリウスに対して大マリウス(Marius Major)とも呼ばれる。
平民出身の軍人としてキンブリ・テウトニ戦争で歴史的勝利を収め、合わせて大規模な軍制改革を行った。軍制改革では市民兵制から職業軍人への切り替え、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容や指揮系統の改革、果ては退職金制度や鷹章旗の制定まで多岐に亘る改革を成し遂げた。この制度は帝政時代を含めて長らくローマの軍事制度として継承された。政治的にはポプラレス(民衆派)の英雄として共和制末期に計7回の執政官就任を果たし、一時は独裁的な権限すら獲得していた。彼の民衆派の指導者としての地位と活躍、及び革新的な軍制改革はローマを帝政へと導く遠因の1つとなる。
彼の妻であるユリア・カエサリアはガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、マリウスは外伯父としてカエサルの政治基盤に多大な影響を残した。
目次
生涯
出自
紀元前157年、ラティウム地方の都市アルピヌム(現:アルピーノ)に同名の父ガイウスと母フルシニアとの間に生まれた。グラックス兄弟の中間でほぼ同年代である他、マルクス・トゥッリウス・キケロとは同郷者であった(キケロのマリウスへの評価は#同時代人の評価を参照)。この地域の住民はラテン系の都市が存在した事からラテン市民権が与えられていたが、ローマ市民権に格上げされたのは紀元前188年になってからという新興地域であった。マリウスは多くのローマ人が持っているような『個人名+氏族名+家族名』の3つでなく『個人名+氏族名』の2つしか持たなかった[1]。
ローマでは出身氏族の名が遠い祖先を示す名字として、個々人を識別する個人名が名前として機能した。その上で高い業績を過去に上げたものが、他の氏族の名乗りを用いる人々と自己と区別する為に家族名を用いた。従って家族名を持たなかった人々は「無名の一族」(ノウス・ホモ)であったという事であり、ガイウス・マリウスはまさにそうした出身であった。通説では貧農の家柄であったとされるが[2]、単に大功を挙げた血族がいなかっただけで、それなりの地位(騎士階級など)ではあったという説がある。
加えて出身氏族であるマリウス氏族についても無名に近く、数ある氏族の中でも権威の無い一門であった。マリウス氏族が歴史に良く知られた名族となるのは彼の登場によってである。
生い立ち
マリウスが幼少の頃、7羽の雛が住む鷲の巣を見つけた事があり(鷲は3つ以上の卵を育てないと言われていた)、家人は珍しい事もあるものだと感心した。鷲はローマ神話に登場する神聖な動物であり、この出来事は後にマリウスが7回の執政官選出を果たす吉兆であったと理解された[3]。また鷲は共和制末期から帝政期にかけて軍と元老院の象徴とされたが、これはマリウスの治世によって行われたもので、本人も鷲を特別視していた様子が伺える。
マリウスは無骨な人物であったとされ、風貌についてはプルタークは「(今日残されている)彼の胸像が示すとおり、常に不機嫌そうな表情を浮べていた」と書き残している[4]。彼は頑健な肉体を持つ男性的な青年であり、娯楽に満ちた都市生活よりも軍での従軍の方を好む気質であった[5]。彼にとって当時のローマ人が教養としていたギリシャ文化など退廃した概念でしかなく、奴隷にそれを学ぶ事も全く馬鹿げた行動だと考えていた[6]。
初期の経歴
テンプレート:Main ローマ軍がイベリア半島の完全征服を目指してケルティベリア戦争を引き起こすと、マリウスは兵士として志願した[7]。マリウスは一騎打ちで敵兵を討ち取る武勇を見せて、軍内で昇進を重ねている[8]。遠征軍を率いる小スキピオからも寵愛を受け、20代で幕僚(トリブヌス・ミリトゥム)に指名されている。小スキピオは晩餐会で「かつては貴方の叔父(大スキピオ)が、そして今は貴方が蛮族との戦いを勝利に導いた。しかし貴方も亡くなられた後は誰が導くのか」と将軍の1人が尋ねると、傍らに着席させていたマリウスの肩を叩いて「此処にいるだろう」と答えたという[9]。小スキピオはマリウスの庇護者として物心両面で大きな影響を与えたといえる[10]。
マリウスは様々な戦いを転戦して軍歴を重ねた後、紀元前122年に官職選挙に立候補してクルスス・ホノルムのスタート地点である財務官(クァエストル)に当選する。政界で彼が協力を仰いだのは父の代からの庇護者(パトロヌス)であったカエキリウス氏族のメテッルス家であった[11]。閥族派であるメテッルス家の支援で平民政治家の登竜門である護民官に当選、元老院議員の地位を得た。これは平民の庇護者である護民官を手駒にしようとする閥族派の意向が働いていたが、マリウスは護民官として富裕階級の投票権を制限する法案を可決させた[12]。メテルス家や門閥派はこれに激しく反発して、マリウスと敵対した[13]。マリウスは自らの政治的姿勢が民衆派に立つものである事を示すと共に、民衆から勇敢な政治家との評価を獲得した[14]。
人気を得たマリウスは五大官職の1つである造営官(アエディリス)の有力候補となったが、メテッルス家の猛反対によって官職を取り逃した[15]。マリウスは諦めずに今度は更にインペリウム保有職である法務官(プラエトル)選挙に出馬、当選を果たしてインペラトル(軍指揮官)となった。反対派は選挙違反の容疑でマリウスを訴えたが、元老院とケンソルはこれを否定した[16]。マリウスはプラエトルとして無難に行動した後、翌年には前法務官権限(プロプラエトル)によりイベリア半島のルシタニア総督へ指名された[17]。総督時代に軍を率いて領内の反乱兵討伐に功績を上げて、任期終了により帰国した[18]。
帰国後、マリウスは執政官選挙に立候補すると見られていたが、何の公職にも就かず暫くの間は休養生活を送った。この間に長年独身を貫いていたマリウスは突然ユリウス氏族カエサル家の子女ユリアと結婚した。ユリウス氏族はパトリキの一族であったが、カエサル家自体はあまり有力ではなく没落した貴族であった。ユリアとの間には跡継ぎとなる小マリウスが儲けられた。また、ユリアの甥にガイウス・ユリウス・カエサルがいた。
ユグルタ戦争
テンプレート:Main 紀元前109年よりヌミディア王ユグルタによるユグルタ戦争が発生、この年の執政官でメテッルス家の当主クィントゥス・カエキリウス・メテッルスの副官(レガトゥス)としてマリウスも参戦した。翌年のムトゥルの戦いでローマはユグルタ軍を破るが、戦争が長期化し始めた事で兵士の間ではメテッルスへの反感が募っていった。一兵士からの叩き上げであるマリウスは前線の兵士達から支持を集めていたので、何人かの帰還兵は「メテッルスよりマリウスが司令官に相応しい」と書き残している[19]。
マリウスとメテッルスは元々遺恨のある間柄であったが、兵士達の態度はそれを焚き付けた。執政官出馬を考えていたマリウスに、元パトロヌスであるメテッルスが20歳の同名の息子メテッルスとの立候補を支援の条件に出したと伝えられている[20][21]。一方でマリウスもメテッルスの友人がユグルタに欺かれて拠点の1つを奪われる失態を犯すと、他の将軍達と共にこの人物の処刑を求めている。メテッルスは友人の処刑を認めざるを得なくなり、他の将軍達は同時にメテッルスを慰める発言をしたが、マリウスはむしろメテッルスを嘲笑する発言をしたといわれている[22]。
紀元前108年末、マリウスは遂に軍職を辞して単身ローマに戻り、ユグルタ戦争の早期終結の公約を掲げて執政官に立候補した[23]。新人であるマリウスの選挙は苦戦が予想されたが、護民官と民会は熱烈にマリウスを歓迎して、彼を新たな執政官に選出した[24]。ユグルタはローマ軍の貴族や軍高官に賄賂を使った買収工作を繰り返しており、軍上層部や元老院が著しく腐敗した状況にある事が明るみに出ていた。民衆は、従来の権力構造の外からの人材を求めていたのである。
かくして泥沼化の責任を取る形でメテッルスは更迭され、マリウスが新たな遠征軍司令官となった。部下により司令官を更迭されるという前代未聞の恥辱にメテッルスは涙を流したと言われている。引継ぎに訪れたマリウスとの会見も屈辱に耐えられないという理由から拒絶して、元老院からの「ヌミディクス(ヌミディアの征服者)」という称号と共に足早に任地を去ったという[25]。しかもメテッルスは去り際に同僚執政官のロンギヌスに指揮権を譲り、そのロンギヌスはもう1つの脅威であった北方の蛮族に備えて出兵してしまった。マリウスは既存の制度では十分に戦争が遂行できないと判断して、大胆な軍制改革を元老院で可決させた(詳細はマリウスの軍制改革、#後世への影響を参照)。
マリウスの軍制改革の結果生まれた新生ローマ軍はユグルタ戦争に勝利する。これはもちろん軍事的な勝利をともなったが、決定的であったのは外交戦であり、それを担当したのはマリウスの副官を務めたルキウス・コルネリウス・スッラであった[26]。スッラはマリウスの軍事的勝利を背景にユグルタを支援し続けたマウレタニア王国の懐柔に成功し、ユグルタを姦計を以って捕らえさせ、戦争は終結した。
凱旋式を行うマリウスに対して、自身の功績が無視されたと感じたスッラはマリウスへの嫉妬と野心を抱かせ、勝利の功労者は自分であると主張した[27]。しかしより重大であった次の戦いでマリウスは自らの軍事的才覚を更に示し、ユグルタ戦争の勝敗は過去の事となった[28]。
キンブリ・テウトニ戦争
紀元前105年末、民会はまだアフリカにいるマリウスを紀元前104年担当の執政官に選出する。この異例の決定は、先に述べた北方の蛮族であるキンブリ族とテウトネス族が各所でローマ軍を破って南下している為であった。当初、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオが蛮族に対処したが、名門貴族に属するカエピオは平民出身の同僚率いる軍と協調せずに戦いを挑み、完膚なきまでに打ち破られて一説には80,000人ものローマ兵が犠牲となった(アウラシオの戦い)。この一件は単なる軍事的敗北だけでなく、共和制末期の元老院の驕りや腐敗が頂点に達した事例でもあり、ローマ市民の元老院への不信と民衆派の台頭に大きな切っ掛けを与えた[29]。
勢いを得た蛮族は総勢で30万を越す兵士とその家族を引き連れ、他の蛮族と小競り合いながらローマ領内へ迫りつつあった[30]。権力の集中を恐れる共和制ローマで執政官の連続当選は禁じられていたが、民衆は独裁者よりも蛮族を更に恐れた[31]。以降、マリウスはキンブリ戦争終結まで4年連続で執政官に当選し、戦争の総責任者として独裁的な権限を揮った。一説にマリウスは同僚執政官すら選ぶ権利を持ち、自らに従順な者から指名していたという。
紀元前104年1月、この年はゲルマニア人は目立った南下を示さず、ひとまずマリウスはユグルタ戦争の凱旋式を挙行した。凱旋式が終わった後、ユグルタは王の装束を剥ぎ取られて裸にされた上、耳飾を耳朶ごと引き千切られて牢獄に放り込まれ、6日後に発狂死した[32]。マリウスは元老院での政務より軍の訓練に情熱を傾け、特に全軍団兵が鎧・兜・剣・槍・工具・食料袋などを全て一式に纏めて担ぎ、行軍するという戦術を徹底的に叩き込んだ。歩兵の迅速な行動を可能としたこの戦術は「マリウスのロバ」と呼ばれ、重労働から高い忠誠心と体力を必要としたことから、ローマ兵達は冗談交じりに勤勉な兵士を指す際にこの言葉を用いたという[33]。紀元前103年にマリウスは護民官に自派のルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスを選出させている[34]。
紀元前102年、再び蛮族が南下を開始したとの報を受け、マリウスは全軍を率いて属州ガリア・キサルピナへ行軍した。アルプス山脈と地中海に挟まれた現在のプロヴァンス地方の到着したマリウスはローヌ川沿いに陣営地を建設して敵軍を待ち構えた[35]。現れた軍勢はキンブリ族と同盟を結ぶテュートン族とアンブロネス族で、マリウスは復讐を逸る兵士達を抑えながら後方に軍を下げて機会を用心深く待った。温泉地であるアクアエ・セクスティアエに到達した所で痺れを切らしたアンブロネス族が単独で陣地に攻めかかってくると、まずこれを撃退して戦力を削った[36]。そしてアンブロネス族への勝利の後に伏兵を配置して、テュートン族が遅れて続くとこれを包囲殲滅して、テュートン人の王テウトボドを捕縛した(アクアエ・セクスティアエの戦い)[37]。圧勝の後、元老院の使者が5度目の執政官が決定したとの公文書を届け、マリウスは兵士達の歓声に包まれながら戦場で月桂樹の冠を受けたという[38]。
だが同時期にマリウスの同僚執政官クィントゥス・ルタティウス・カトゥルスはキンブリ族を抑える手筈に失敗して敗走していた。マリウスは直ちに軍勢3万2000名を東に向けると、カトゥルス軍の残存兵2万300名を合流させてキンブリ族を迎え撃った。キンブリ人の王ボイオリクスはテュートン族らを破ったマリウスに敬意を払い、護衛兵のみを連れてマリウスの陣営地を訪れると、両軍の決戦場を定めようと提案した[39]。マリウスはこれを受けて立ち、ウェルケッラエの平原で3日後に両軍は相対した[40]。マリウスはカトゥルスに中央の防御を命令し、自らは両翼に直営軍3万2000名を二つに分けて配置する陣形を組んだ[41]。キンブリ族が中央陣地に攻めかかった所を、マリウスが自ら率いるローマ騎兵(投矢と剣で武装していた)がキンブリ騎兵を撃退、そのまま側面から挟撃してキンブリ族を殲滅した(ウェルケッラエの戦い)[42]。
2度に亘る圧勝でキンブリ族・テュートン族・アンブロネス族は歴史上から存在を消し、2つの部族の王はマリウスに捕らえられた[43]。他に続くと思われていた蛮族たちはローマに恐れをなして北方へと逃げ帰り、ローマを揺るがした危機は遂に解決された。民衆はマリウスをロムルス、カミルスに次ぐ「第三の建国者」と呼び、有力者や貴族はこぞってマリウスを讃える戦勝像や記念施設を建設し、多くの贅沢品をマリウスに捧げたとプルタークは伝えている[44]。
政治的台頭と失脚
今やマリウスの権威は頂点に達し、平民出身である彼の権威はそのまま彼を支える民衆派議員の台頭へと繋がったが、その中でカトゥルスやスッラなど敵対する者も現れた。マリウスは副将であったカトゥルスを讃えることを忘れなかったが、民衆は前の戦いで失態を犯していたカトゥルスを殆ど無視し、反対にその前のアクアエ・セクスティアエで勝利を得ていたマリウスの功績だと評した[45]。これはカトゥルスの自尊心を大いに傷付け、彼はマリウスと敵対する派閥へと転じる事となった。
紀元前101年、凱旋式を終えたマリウスは最早慣例となっていた毎年の執政官就任について、これを続ける意向を示した[46]。マリウスは既に5年連続で執政官となっており、これほど長期間(5年間)もインペリウム保持者である執政官としてローマに君臨し続けた例はなく、その上に平時もそれを続ければマリウスによる独裁を容認する事を意味した。加えてマリウスは戦争においては常に冷静でありそれが幾多の勝利に繋がっていたが、政治家としてはむしろ檄し易く、少しの理由で他者を粛清した[47]。民衆派と共にマリウスを英雄として讃えていた閥族派は再び敵対し、これに対抗すべく一層にマリウスは民衆派による元老院支配を強めていった[48]。同年にはサトゥルニヌスら民衆派議員の攻勢によってユグルタ戦争の指揮官だったメテッルスが議員資格を剥奪され、国外に追放されている[49]。最終的に民衆派議員の支援と民衆支持を背景に、マリウスは6度目の執政官当選を決めた[50]。
マリウス当選により民衆派による元老院支配は決定的になったかに見えたが、腹心であったサトゥルニヌスの存在が思わぬ失敗なった[51]。マリウスはサトゥルニヌスを通じて職業軍人となった軍団兵に退職金を用意する制度の整備を進めた[52]。元老院は財源不足を理由に反対の空気が大きかったが、この時マリウスは独裁的な権限を有していたので逆らえず、元軍団兵士に占領地などの領地を分配する制度を認めさせた[53]。だがサトゥルニヌスは次第にマリウスの権威を盾にして横暴な振る舞いを見せ、ついには護民官選挙の対立候補を暗殺するなどの暴挙を起こしたことで元老院最終勧告を言い渡されてしまった[54]。
サトゥルニヌスはクーデターを望んで武装蜂起したが、マリウスはこれに加わらず、軍を率いて反乱軍を議事堂に追い込み水の供給を止めて投降させた[55]。この一件でマリウスは反逆者の汚名は避けられたものの民衆派自体の勢いは退潮し、政界からの引退を余儀なくされた[56]。6度目の執政官任期が終わると、メテッルスらが国政に復帰する中でマリウスは家族を連れてカッパドキアやガラテアなど東方属州を旅行するなど隠遁生活を送った[57]。
ローマ内戦
帰国した後にマリウスは市外地中心部へ邸宅を構えたが、平時の世においてはマリウスの威光にも陰りがあり、陳情の数は多くなかった[58]。また閥族派はマリウスの復権を恐れており、スッラはその脅威を煽る事で閥族派の指導者となりつつあった[59]。
マリウスがスッラと閥族派への敵意を深める中、ローマはマリウスの残した軍制改革の結果、思わぬ戦争に引きずり込まれていく。さまざまな不平等に耐えていたイタリア半島内の同盟諸都市は、軍政改革をきっかけとして完全なローマ市民権を求めるようになった。そして紀元前91年、護民官マルクス・リウィウス・ドルススのローマ市民権拡大の提案に、ドルススの暗殺で答えたローマに対してイタリアの同盟諸都市が大規模な反乱を起こしたのである(同盟市戦争)。
将軍としてローマ軍に加わったマリウスは無駄な小競り合いを避け、敵戦力を釘付けにすることに腐心した。同盟市軍の主な司令官であったブブリウス・シッロ(Publius Silo)が「かの大将軍ならば、私と一戦を交えるはずだ」と挑発した時、マリウスは「一騎打ちなら喜んで引き受けよう」と一蹴したという[60]。
戦乱の中、ポントス王ミトリダテス6世は同盟市戦争が長期化すると見込んで紀元前88年に兵を起こし、ギリシャ諸都市にローマへの反乱を促した(第一次ミトリダテス戦争)。元老院内はミトリダテス6世討伐軍司令官に誰を推挙するかで紛糾、閥族派はスッラを、民衆派はマリウスを候補者に掲げて争った。争いはマリウスの新たな腹心であった護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスの猛烈なスッラへの反対運動によって想像以上にもつれ込んだが、最終的にスッラは念願の執政官となり、元老院によってミトリダテス6世討伐を命令された[61]。
だが常に戦いによって栄達を果たしてきたマリウスはあくまでも指揮権を望み、スルピキウスに手勢を引き入らせてクーデターを決行、スッラを支持する複数の議員が謀殺された[62]。スッラ本人も危うくスルピキウスの兵に殺害されそうになり、命からがらマリウスの家に助けを求めたという[63]。マリウスはスッラを助ける態度を見せつつ、裏で手を結んでいるスルピキウスの法案に賛同するように了承させ、マリウスへの指揮権委譲を認めるスルピキウス法が可決した[64]。
晴れてスッラを失脚させて表舞台に復帰したマリウスだったが、スッラは民衆派に抑えられたローマを脱出して軍の掌握に成功していた[65]。とはいえ元老院とローマが抑えられていてはスッラ軍は賊軍であり、かつ既にこの時代にはローマは不可侵の土地とする慣習が成立していた。だがスッラは元老院の正常化を大義名分に首都ローマへ侵攻する暴挙を起こした[66]。警備用の僅かな兵士しかいないローマに取り残された民衆派の議員達は完全に浮き足立ち、混乱の中でマリウスはローマ住民から市民兵を集めてスッラと対峙したが、市民兵は錬度や装備の面で軍団兵に敵わず敗れ去った。皮肉にも職業軍人のローマ軍を作り出したマリウス自身が、市民兵より職業軍人が優れている事を証明する形になった。
亡命からの再挙兵
スッラ軍によってスルピキウスらは殺害され、民衆派の議員はローマ国内外へと亡命していった。マリウスも妻ユリアや息子の小マリウス、甥(姉マリーアの息子)のマルクス・マリウス・グラティディヌスらを伴い、オスティア港から北アフリカへと逃れていった。強風による航海の不調や、各都市での追討を逃れながら各地を転々としていたが、ミントゥルナエ(Minturnae)にたどり着いた所でマリウスはその都市の市議会によって捕らえられた。
スッラによる討伐令を知っていた市議会は直ちにマリウスの処刑を議決した。しかし実際に実行するとなると、誰もがかつての英雄に刃を向ける事を躊躇った。市議会は紛糾した末、ローマ人と違ってマリウスに憎しみしかないであろう、滅ぼされたキンブリ族の奴隷に寝所に忍び込んで暗殺するように命じた。だが奴隷が深夜にベットへ忍び込んだ時にマリウスは起きており、事態を察すると動揺する事もなく「汝に勇気があるならば、殺すがよい」と告げたという[67]。キンブリ人奴隷は剣を捨てて逃げ帰り、議員たちに「我々はあの男を殺せない」と懇願したという[68]。
紀元前87年、スッラは新しく執政官に当選したルキウス・コルネリウス・キンナらに後事を託し、ギリシャと小アジアの反乱制圧のために遠征する。ここでキンナはスッラを裏切り、マリウスなど「民衆派」の復権と「スルピキウス法」の復活を目指す。もう1人の執政官であるグナエウス・オクタウィウスが拒否権を発動して失敗に終わるが、マリウスが兵を率いてアフリカからローマに戻り、ローマはマリウスとキンナの手に落ちる。マリウスは閥族派(スッラ派)のみならず、スッラの提案したマリウスを国賊とする法律に反対しなかった多くの人を殺害した。マルクス・アントニウス・オラトル(マルクス・アントニウスの祖父)やルキウス・ユリウス・カエサルらコンスル経験者を含む元老院議員だけで50人、騎士階級の者に至っては1,000人を超えたと言われ、夥しい数の首がフォルムの前に晒された。復讐を果たしたマリウスは腹心であるキンナと共に民会から執政官に選出される。
これはマリウスにとっては7回目の執政官就任となり、共和政期においても歴代最多の執政官経験数であった。
民衆派の落日
マリウスはスッラの軍勢と相対すべく準備を始めたが、執政官就任式の直後に病状(腹膜炎であったとされる)が思わしくなくなり、死期を悟ったマリウスは一族や側近達を集めた晩餐会で後継者などを指名して、自らは病床に伏した。後継指名から5日後、執政官就任から13日目の紀元前86年1月13日、マリウスは持病の悪化により死を迎えた。70歳であった。
指導者であるマリウスを失った民衆派は残されたキンナの手に委ねられた。キンナは空席の執政官を自派のフラックスによって埋め、続いて85年・84年も執政官を務めてスッラらオプティマテスへの対抗を続けた。キンナは小アジアにフラックス率いる援軍を差し向け、ポントス王国とスッラを挟み撃ちにしようとしたが、スッラに敗北したポントス王国は単独で和平を結び、遠征軍もスッラの側に寝返ってしまった。スッラの勝利に焦ったキンナは遠征を試みるがその途上で事故死した。
立て続いて指導者を失った民衆派は執政官となったマリウスの息子小マリウスを新たな指導者に掲げて激しい抵抗を見せたが、小マリウスはサクリポルトゥスでスッラ軍に敗北・自害した。ローマに入城したスッラは埋葬されていたマリウスの遺灰を掘り起こすと、魂の復活を避ける為にティヴェレ川へ流したという。ローマ入城後独裁官に就任したスッラによって民衆派は粛清されたが、スッラの死後に台頭したマルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスと手を組んだ民衆派のカエサルが第一回三頭政治を結成、民衆派の復活に繋がった。
後にカエサル暗殺による騒乱の中、マリウスの落胤を自称するアマティウス・マリウスという人物が民衆派の残党を率いたとの伝承が残っている。アマティウス派は閥族派と手を結んだマルクス・アントニウスによって捕えられ、カエサルの祭壇を設置するなどの行動に加え、「マリウスの末裔を騙る僭称者」(Pseudomarius、プセウド・マリウス)であるとして処刑された。この一件は既にマリウスがローマにおける権威の一つとして認識されていた事を示している。
家系
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評価
後世への影響
ガイウス・マリウスが共和政ローマにおいて重要であるのは、共和政ローマの崩壊へとつながる数多くの要因が、彼の行ったことの多くと関連するからである。彼は「新人(ノウス・ホモ)」と呼ばれる、先祖に元老院議員を持たない、従来の共和政ローマの指導者層の外からやってきた指導者であった。それまでのローマ軍兵士の前提条件であった、土地所有階級のローマ市民から徴兵するという制度を変更し、志願制を採用して、土地を持たない無産階級の兵士を募った。この改革のもたらした結果は、ローマ軍がその軍を編成した将軍の私兵になっていくというものだったとされる。それが、その後の共和政ローマ内部の政争やカエサルのような人物を誕生させ、帝政ローマへと変貌していく大きな要因となったとされる。
またマリウスは、ユリウス氏族カエサル家の女性と結婚した事から血統として甥となるガイウス・ユリウス・カエサルの政治姿勢にも少なからず影響を与えた。年若いカエサルの助命を嘆願する身内の議員達に、スッラは「あの青年の中には多くのマリウスがいる」と呟いたと伝えられている。もっともユリウス氏族は長い伝統を誇る一族ではあったがそれほど有力な一族ではなかったので、マリウス個人の立場にはあまり関係はなかった。
マリウスは疑いなく優れた才覚を持つ軍司令官であり、多大な軍事的功績によってローマに繁栄を与えた。しかし晩年のスッラとの内戦は彼の輝かしい名声を曇らせる事に繋がった。内戦の過程で行われたスッラのローマ占領も批判されるべき行動ではあったが、内戦のきっかけであったスッラからの軍指揮権剥奪もまた政治的正当性の薄い行為であった。膨大な数の騎士と貴族を処刑した事や、功績を背景に強権を振るった行為、そして彼の軍制改革はローマの共和制に止めを刺す事になったのである。
歴史的評価
- 同郷人であるキケロは、マリウスをガイウス・フラミニウスやスキピオ・アフリカヌスらと共に「政治家が権威付けに用いる偉人の一人」と評している[69]。
- 一方でスッラとの内戦中に行ったローマ占領については批判しており、元老院との協調によって復権した自分と対比させている。
- 歴史家ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、『ユグルタ戦記』の中でマリウスを英雄として描き、逆に対立が噂されていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスを小人物として描いている。
- 甥のカエサルは政治的な後盾としてマリウスがユリウス家の一族である事をしばしば強調し、叔母ユリアの葬儀での演説など権威回復に努めた。
- プルタルコスは葬儀でカエサルが公式での使用が禁じられていたマリウスの銅像を持ち出して、その功績を公然と賞賛したと書いている。
- プルタルコス本人は『対比列伝』で将軍としての才覚を讃えつつ、「敵対者には極めて攻撃的だった」と寛容でない苛烈さを欠点として記している。
- 新古典主義においては盛んにギリシャ・ローマ時代の歴史画が描かれたが、マリウスもローマの英雄として幾度も題材に用いられた。
- 著名なものでは「ミントゥルナエのマリウス」(ジャン=ジェルマン・ドルーエ)、「マリウスの勝利」(サヴェリオ・アルタムーラ)、「マリウスの凱旋」(ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ)などが挙げられる。
逸話
- 一兵卒からの叩き上げであるマリウスは将軍になってからも他の将軍達の様に豪勢な食事は取らず、兵士と同じ食事を取った。
- また戦場では兵の先頭に立って白兵戦を敵に挑み、剣を振るって兵を激励した。こうした姿勢から兵士達からの人望は常に篤かったという[70]。
- ギリシャ文化を軽蔑していた事で知られ、マリウスの為に有力者がギリシャ詩劇の特等席を捧げたが、マリウスは一瞥もせずに帰ったという[71]。
- 私財の蓄財や放蕩な生活にはさほど興味を持たず、あくまで栄光と戦争に野心を燃やした人物であった。晩年に後継を指名する時ですら、「70年の生涯で7度執政官となり、幾度も戦争に勝ち、蛮族を破った。…だが何ら満足はしていない。」と呟いたという[72]。
脚注
関連項目
- ↑ Hildinger, Erik (2002). "Chapter 5: The Jugurthine War". Swords Against the Senate: The Rise of the Roman Army.
- ↑ 「The Parallel Lives -The Life of Marius」Plutarch
- ↑ プルタルコス「マリウス」
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- ↑ Hazel, John (2002). Who's Who in the Roman WOrld.
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- ↑ 執政官の立候補年齢から言えば、数十年近く待つように命じたのと同じになる
- ↑ 「The Parallel Lives -The Life of Marius」Plutarch
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- ↑ huckburgh, Evelyn Shirley. "Chapter XXXVII - The First Period of Civil Wars, 100-84". A History of Rome to the Battle of Actium. Macmillan and co. pp. 577?581.
- ↑ 「The Parallel Lives -The Life of Marius」Plutarch
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- ↑ キケロ「アカデミカ」2.1.5
- ↑ Plutarch, Life of Marius
- ↑ 「The Parallel Lives -The Life of Marius」Plutarch
- ↑ 「The Parallel Lives -The Life of Marius」Plutarch