ユグルタ戦争

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ユグルタ戦争
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ユグルタ(右端)の捕縛
戦争ユグルタ戦争
年月日紀元前112年 - 紀元前105年
場所ヌミディア
結果:共和政ローマの勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 共和政ローマ ヌミディア王国
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | クィントゥス・カエキリウス・メテッルス
ガイウス・マリウス
ユグルタ
ボックス1世
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ユグルタ戦争(ラテン語:Bellum Iugurthinum)は、紀元前112年から紀元前105年にかけて共和政ローマヌミディアユグルタの間で行われた戦争である。ローマの体制内の倫理的な退廃が浮き彫りになった戦争であると共に、ガイウス・マリウスの権威が上昇し、後にローマの独裁官となるルキウス・コルネリウス・スッラの出世の先駆けとなった戦争としても位置づけられる。

ヌミディア内乱とユグルタの登極

ヌミディアは、共和政ローマの長らくの宿敵カルタゴに近いアフリカ北部、現在のアルジェリアに位置していた王国であった。第二次ポエニ戦争スキピオ・アフリカヌスに協力したマシニッサにより統一され、その後、ミキプサが王位を継いでいた。紀元前118年にミキプサが死去した後、ヌミディアには3人の有力な後継者が存在した。ミキプサの2人の息子であるアドヘルバル(en)、ヒエンプサル(en)、そしてミキプサの甥で養子となっていたユグルタである。ミキプサは3人が協力してヌミディアを統治することを望んだが、ユグルタはヌミディア単独の王位を望んだことから、殺人・賄賂・裏切り行為・暗殺など、あらゆる陰謀を駆使することとなる。ユグルタはスキピオ・アエミリアヌスによるヌマンティア攻撃時に援軍として赴いており、その際にローマ軍の軍略を学んでいた。

まず、ユグルタは2人の暗殺を謀り、ヒエンプサルは殺害されたが、アドヘルバルは危険を脱して、ローマへ支援を要請するために逃げ込んだ。紀元前116年、ローマの仲介によりユグルタとアドヘルバルはヌミディア分割の協定を結んだが、ユグルタはローマの使節団を贈賄で絡めとって、自らに有利な領土を得ることが出来た。暫くは平和な状態であったが、紀元前113年にユグルタは突如としてアドヘルバルの領地へ攻め込んで、アドヘルバルの王国の首都キルタ(現:コンスタンティーヌ)を包囲した。アドヘルバルはキルタに住んでいたローマ人と協力して抵抗した為、ローマは両軍を仲裁する使節をヌミディアへと送ったが、ユグルタは再びこの使節団に対しても賄賂を送り、ユグルタによるキルタ攻撃を黙認させた。ユグルタはキルタを陥落させて、アドヘルバルを殺害し、アドヘルバルに協力した多数のローマ人を殺戮した。ローマ元老院はこのユグルタの行為を受けて沸騰し、紀元前112年にヌミディアに対して宣戦を布告した。

戦争の経過

紀元前111年から紀元前110年の戦争

ファイル:East Numidia.jpg
ヌミディアの地図

紀元前111年にローマの執政官(コンスル)となったルキウス・カルプルニウス・ベスティア(en)がローマ軍団を率いてヌミディアへと侵攻し、敢え無くユグルタは降伏したが、降伏したユグルタにとって有利な協定を与えた。ユグルタはベスティアを買収したようにも考えられる。

ユグルタは協定調印のためにローマへ到着した後、再び陰謀を図り、ユグルタに不利な証言を行おうとした護民官を買収し、ヌミディア王の有力な潜在的候補者であったユグルタの従兄弟にあたるマッシウァ(Massiva)の暗殺未遂事件を起こしたため、ユグルタはローマから追放され、ヌミディアへと戻った。

紀元前110年末から紀元前109年の初旬にかけて、プラエトル(法務官)であったアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス(en)率いるローマ軍がヌミディアへ侵攻したが、ユグルタはローマ軍を撃破した。この際にもその年の執政官の親類者に対する賄賂などを行ったとされる。ユグルタはヌミディアの正当な支配者としてローマが認めるよう要求したが、元老院はこれを拒否した。

紀元前109年からの戦争

紀元前109年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルスが率いるローマ軍がユグルタを破るためにアフリカ北部へと派遣された。メテッルスは直接的にはユグルタ戦争の終結に寄与しなかったが、後に「ヌミディクス」の尊称を得ることとなる。

メテッルスは直接的な攻撃を仕掛けたが、ユグルタはまともに相手をせずにゲリラ戦に徹した。メテッルスはコンスルの任期終了後はプロコンスルとして引き続きユグルタとの戦争に当たったが、戦争は長期化した。逆にローマ軍の内部での争いが拡大しつつあった。即ち、メテッルスとその配下の武将であったガイウス・マリウスの間の争いである。

紀元前108年にメテッルスの許可を得てマリウスはローマへと戻り、紀元前107年のコンスルの選挙に立候補し、コンスルに選出された。マリウスの立候補はユグルタとの戦争における指揮権を狙ってのことであり、メテッルスに代わってマリウスがユグルタとの戦争に当たるように示した法案が元老院によって許可された。

紀元前107年からの戦争

紀元前107年、コンスルとなったマリウスがメテッルスに代わってユグルタ戦争の指揮を取るためヌミディアへ到着したとき、ユグルタは隣国マウレタニアの王で自らの彼の義父であったボックス(en)と協力関係にあった。マリウスは幾つかの戦いでユグルタ軍に勝利を収めたが、ユグルタ軍に決定的な打撃を与えるには至らず、メテッルスを苦しめたユグルタによるゲリラ戦術により戦争は再び長期化の様相を示し始めた。

マリウスは戦闘でユグルタを打ち破るのは容易でないと判断し、謀略によってユグルタを倒す方針を決めた。ユグルタの協力者であったボックスに的を絞り、クァエストル(財務官)として従軍していたルキウス・コルネリウス・スッラにボックスによる裏切り工作を行うように指示した。スッラはヌミディア王国の一部領域をマウレタニアへ譲る内容の提案を行い、ボックスをローマ側の協力者に仕立てることに成功した。ボックスは会議の席でユグルタを捕えて、ユグルタをローマへと引き渡した。

ユグルタはローマへ送られて、トゥッリアヌムへ抑留され、紀元前104年に行われたマリウスの凱旋式の際に処刑された。

ユグルタ戦争の意味合い

ユグルタとの戦争によって、この時期の共和政ローマの問題点が浮き彫りになった。ユグルタが買収によってローマ軍を抑え込んで、ローマの支配体制へ影響力を行使したことで、ローマの体制内の倫理的な退廃がはっきりした。ローマ軍の組織力の低下と、それらの体制を変更させたマリウスの権威が上昇した。また、ユグルタ捕縛の決定的な役割を担ったスッラの出世の先駆けとなった戦争であり、後のマリウスとの内戦のきっかけともなった。

ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、共和政ローマによる倫理観の退廃を強調しながら「ユグルタ戦争」を題材とした「ユグルタ戦記」を記した。