ウォルビスベイ
ウォルビスベイ(テンプレート:Lang-en、テンプレート:Lang-af、テンプレート:Lang-de)は、ナミビア共和国の沿岸中部、大西洋に面する天然の良港である。
ウォルビスベイを含む一帯は、南アフリカ共和国がナミビア独立前に自国に併合していたため、1990年3月21日のナミビア独立後も引き続き南ア領であるとして自国領土とし、飛び地として占領していた。これに対しナミビア政府が再三の返還要求を行った結果、1994年3月1日にナミビアに返還された。
歴史
もともとウォルビスベイがあるウォルビス湾は、1487年12月8日にバルトロメウ・ディアスが航海中に発見し「O Golfo de Santa Maria da Conceição」と名づけたものである。しかしポルトガルはこの地に対し領有権を主張しなかった。
その後、1840年にイギリスがケープ植民地と自国との航路の中継地にするためにウォルビス湾と周辺一帯の領有を開始し、さらに1910年にはドイツの進出を防ぐために成立させた南アフリカの一部として併合した。これに対しドイツは第一次世界大戦中に占領するも、戦後に南西アフリカが国際連盟によって南アの委任統治領となった際にウォルビスベイ一帯も南西アフリカに併合された。しかし、南西アフリカが南アに不法占領されていた1977年、首都ウィントフックの外港として戦略上重要なウォルビスベイ一帯がナミビア独立勢力に奪取されることを恐れた南アは一帯をケープ州に併合した。
南アは1990年3月21日の南西アフリカのナミビアとしての独立後も引き続き自国領土であるとして実効支配を行っていた。これに対しナミビア政府が再三の返還要求を行った結果、1994年3月1日にナミビアに返還された。
南アがナミビアによる返還要求に応じた理由は、ウォルビスベイが南ア領になると、周囲を囲むナミビアとの間で税関の煩雑な手続きが必要となってしまう事や、ナミビアが独立したにも関わらず、南アのアパルトヘイトによる経済制裁がウォルビスベイだけ続くのではないかと考えた現地の企業や経済界(しかもこれらは、白人や英米南ア資本であった)が、ウォルビスベイのナミビア引渡しを南アに強く要求したためであった。このように、現地に味方がいないと悟った南アが引渡しを現実に考えるようになり、返還が実現したのである。
なお、1994年4月に南アの政権を奪取したアフリカ民族会議(ANC)は、ナミビア与党の南西アフリカ人民機構(SWAPO)と旧来から親密な関係であったため、仮に3月に返還されなかったとしても、ウォルビスベイがやがて返還されるのは時間の問題であったと言える[1]。