アーリア人
テンプレート:Redirect アーリア人(テンプレート:Lang-en-short, テンプレート:Lang-de-short, テンプレート:Lang-sa, テンプレート:Lang-fa )は、狭義と広義で対象が異なる。広義にはインド北西部を出自としたグループ。狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。
目次
概要
前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。
アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。[2]
これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
- 狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
- 最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種)
- インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられているが、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は歴史的にも血統的にもアーリア人の成り立ちから考えて妥当ではなく、現在はほとんど否定されている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。
本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。
語源と名称の変化
アーリアの語源は、サンスクリット語の「アリア (aria, arya, 阿唎耶)」、および、それがペルシャ語に取り入れられた「アリイア (ariia)」とされる。いずれも「高貴な」という意味で、他民族より「高貴な」民族と考えたアーリア人が自称した。古代ギリシア人がイラン高原をアリアナ地方 (Aryana)、当地の住民をアーリア人と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。
宗教
イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる[3]。
バラモン教
バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。
バラモン教が影響を与えた他の宗教
- 仏教は、バラモン教の風土を土台に釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が修行の後に悟った真理で、釈迦の死後にバラモン教の一部を取り込んでいる。
- ヒンドゥー教は、バラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んで再構成されたものである。
- ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教えで、より徹底した不殺生を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
- シク教は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。
脚注
アーリア人と関連した出来事
- インド
- 中央アジア
- イラン・アーリア人となる。
- 一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
- 中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
- 紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
- 紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
- 紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
- 紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
- 4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。
脚注
- ↑ 青木健「アーリア人」216ページ
- ↑ Y-Chromosome distribution within the geo-linguistic landscape of northwestern Russia
- ↑ 辻直四郎(1967)『インド文明の曙 ヴェーダとウパニシャッド』38頁。要するとデーヴァ(ダエーワ)とアスラ(アフラ)はインドとイランで正反対の好対照をなしている。
文献
外部リンク
- 『アーリア人』青木健千夜千冊 連環篇