アレッサンドロ・ザナルディ

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テンプレート:Infobox テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalCountry テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalBottom アレッサンドロ・レオーネ・ザナルディAlessandro Leone Zanardi, 1966年10月23日 - )(写真)は、イタリアボローニャ出身のレーシングドライバーハンドサイクル選手。通称として、特にアメリカでは「アレックス・ザナルディ」(Alex Zanardi)とも。

1991年から1994年と1999年にF1ドライバーとして活動したほか、CARTで2度シリーズチャンピオンに輝いた。また2012年ロンドンパラリンピックのハンドサイクル・タイムトライアル、ハンドサイクル・ロードレースで金メダルを獲得した。

プロフィール

F1前

カートレースからキャリアを始め、1988年よりイタリアF3に参戦。1991年には国際F3000へステップ・アップを果たし、10戦で2勝・2位4回を記録し、チャンピオン争いを展開。注目を浴びることとなった。

F1第1期

ジョーダン

1991年

1991年第14戦スペインGPにて、ジョーダンからF1デビューし、最終戦オーストラリアGPまでの3戦をドライブ。チームへの参加は第13戦ポルトガルGPを迎える前に決定していたが、日程が折り合わず、スペインGPがデビュー戦になったという経緯がある。

この年のジョーダンは、中盤からの連続入賞や第11戦ベルギーGPにおけるアンドレア・デ・チェザリスの一時2位走行など、新鋭チームながら活躍を見せ注目を浴びていた。しかしザナルディが参戦した時点では、既に勢いを欠いており、入賞を記録することは出来なかった(9位2回、リタイヤ1回)。

ミナルディ

1992年

1992年ティレルからエントリーされていたが、開幕直前で資金を持ち込んだデ・チェザリスにシートを奪われたため、ベネトンのテストドライバーとして活動した。

中盤には、クラッシュで負傷したクリスチャン・フィッティパルディの代役として、第9戦イギリスGPから第11戦ハンガリーGPの3戦に、ミナルディから参戦。しかし、うち2戦は予選不通過、唯一決勝に進出した第10戦ドイツGPもリタイヤに終わる。

ロータス

1993年

1993年からは、ロータスのレギュラードライバーとして参戦。第2戦ブラジルGPで6位に入り最初で最後の入賞を記録している。その後も時折上位に顔を出す一方で、第4戦サンマリノGPでは炎を挙げたまま、第5戦スペインGPでは白煙を挙げたままの走行を続けるなど、物議を醸す場面も見られた。

中盤以降はリタイヤが続き、第12戦ベルギーGPのフリー走行において、オー・ルージュで大クラッシュを起こし負傷。シーズン途中で戦線離脱する。

1994年

当初はテストドライバーとしてロータスと契約。しかし前年よりザナルディに代わってステアリングを握っていたペドロ・ラミーが、テスト中のクラッシュで重傷を負った為、第5戦スペインGPより正規ドライバーに繰り上がることとなった。

しかしマシンの性能に悩まされ、最高位はスペインGPでの9位と入賞することは出来なかった。結局、この年限りでF1のシートを喪失。ザナルディが乗っていたロータスは信頼性が悪く、また戦闘力の低いマシンの限界をさらに引き出そうとする様なアグレッシブな走りはクラッシュと紙一重で、結果として「壊し屋」の異名も取っていた。

CART

ファイル:Alex Zanardi @ Vancouver.jpg
1998年バンクーバーにて

活躍の場をアメリカ大陸に求め、1996年からチップ・ガナッシよりCARTシリーズに参戦、トップ争いを繰り広げる。参戦初年度より6PP・3勝を記録し、ランキング3位を獲得。特に最終戦ラグナセカのファイナル・ラップで見せた、前代未聞のショートカットオーバーテイク("The pass")は注目を浴びた。この頃、ザナルディに目をつけたのが北米進出を目論むバリッラだった。自らもレーシングドライバーだったパオロ・バリッラを役員に持つこのイタリアのパスタメーカーがザナルディのパーソナルスポンサーにつくことになり、彼のヘルメットとキャップにバリッラのロゴが入るようになった(2012年現在もスポンサーを続けている)。

その後1997年には5勝、1998年には7勝を挙げ、圧倒的な強さで2年連続チャンピオン獲得。アクシデントで大きく出遅れても、特殊なピット戦略を使うこともなく、コース上で挽回しあっさり優勝してしまう強さは専門誌をして「意味不明」と評された。また、勝利した時にメインスタンド前で見せるドーナツターンは名物となった。

F1第2期

ウィリアムズ

1999年

CARTでの活躍が評価され、1999年にはウィリアムズと2年契約を結び、5年ぶりにF1にカムバック。トップチームからの参戦で期待されたが、シーズンが始まると予選で二桁グリッドに沈むことが多く、決勝でもポイント圏外を走行した後、気がつけばストップしているパターンが目立った。第9戦オーストリアGPでは、給油の周を間違えてピットインし損ね、そのままガス欠でリタイヤというミスも犯している。

それでも、母国である第13戦イタリアGPでは、予選で自身ベストとなる4位グリッドを獲得し、決勝でもスタートを決め一時2位を走行。しかしペースが上がらずに後退してゆき、最終的には入賞圏外の7位に終わった。結局この年はこれがハイライトとなり、一度も入賞出来ずに終わった。リタイヤも16戦中10度を記録し、チームと合意の元で契約を解除した。ラストレースとなった最終戦日本GPでは、電気系トラブルで1周も消化出来なかった。

ウィリアムズは丁度低迷期でもあったが、11度の入賞(うち3度の表彰台)を記録した同僚ラルフ・シューマッハとは、対称的な結果しか残せなかった。この時期急激にハイテク化とトータルパッケージ化が進んだF1に、全く馴染めなかった為とされている。

CART復帰

1年間の休養を挟み、2001年に再びCARTに参戦したが、かつての栄光とはかけ離れた結果が続いていた。だが9月15日、ドイツラウジッツリンクで行われた第16戦においては、序盤からトップを走行。久々の優勝が目前となっていた。

しかし残りも16周となった際、ピットアウト直後のピットロード出口でスピンしコースに飛び出した。ザナルディは立て直しを図るもマシンが左を向いた瞬間、モノコック側面に後続のアレックス・タグリアーニのマシンが時速約200マイル(時速約320キロ)で突っ込み2台は大破。特にザナルディのマシンの損傷は激しく、モノコック前部が完全に失われた。この事故で脚部に大きな損傷を受け、ザナルディは両足を膝上で切断された。出血多量によりザナルディは生命の危険にさらされたが、最終的に一命を取り留めた。

事故後、WTCC

両足切断という状態となっても、レースに対する情熱は衰えず、現役を続行することとなった。事故から20ヶ月後の2003年5月11日には、事故のあったラウジッツリンクで特別仕様のマシンに乗り込み、前年のレースの残り周回を走り切った。

2003年からはレース界に本格復帰、ツーリングカー選手権で活躍。

2005年シーズンからはFIAWTCCBMWから参戦。2005年8月のWTCC第7ラウンド RACE2(第14戦)において優勝。また、2006年7月2日の第5ラウンド RACE2(第10戦)ではクラッシュ続発の大荒れのレースの中、3位に入賞を果たす。

そんなザナルディに対し、2005年には第6回ローレウス・スポーツ賞カムバック賞が贈られた。

2006年11月25日スペイン・バレンシア・サーキットにて、義足でF1マシンBMWザウバーに乗り込み12周走行。

ハンドサイクリング転向

2009年限りでWTCCを引退、数年前から並行して取り組んでいたハンドサイクル2012年ロンドンパラリンピック出場と、メダル獲得を目指して本格的に転向した。

2007年には既にニューヨークシティマラソンで4位に入っているが、2009年の9月にはローマで行われたパラサイクル世界選手権のロードに出場、ハンドサイクルのタイムトライアル部門で優勝したオズ・サンチェス北京パラリンピック同種目金メダリスト)にわずか4.5秒差の15位と健闘を見せた。

2010年3月21日にはローママラソンのハンドサイクリング部門で優勝を飾っている。

2012年3月14日、同年開催のロンドンパラリンピックイタリア代表に選ばれ[1]、かつてカーレースで走った事のあるブランズ・ハッチサーキットで行われた[2]、16kmのH4ハンドサイクル・タイムトライアル、[3]ハンドサイクル・ロードレースの2種目で金メダル、ハンドサイクル・チームリレーで銀メダルを獲得した。

F1での年度別成績

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1991年 ジョーダン 191 USA
BRA
SMR
MON
CAN
MEX
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
9
JPN
Ret
AUS
9
31位 0
1992年 ミナルディ M192 RSA
MEX
BRA
ESP
SMR
MON
CAN
FRA
GBR
DNQ
GER
Ret
HUN
DNQ
BEL
ITA
POR
JPN
AUS
35位 0
1993年 ロータス 107B RSA
Ret
BRA
6
EUR
8
SMR
Ret
ESP
14
MON
7
CAN
11
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
DNS
ITA
POR
JPN
AUS
20位 1
1994年 107C BRA
PAC
SMR
MON
ESP
9
CAN
15
30位 0
109 FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
13
BEL
ITA
Ret
POR
EUR
16
JPN
13
AUS
Ret
1999年 ウィリアムズ FW21 AUS
Ret
BRA
Ret
SMR
11
MON
8
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
11
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
7
EUR
Ret
MAL
10
JPN
Ret
19位 0

エピソード

  • F1では1994年まで「アレッサンドロ・ザナルディ」名義でエントリーしていたが、1999年に復帰した際にはCARTで使用していた「アレックス・ザナルディ」名義でエントリーした。
  • ラグナセカ・サーキットの名物であるコークスクリュー(コーナー)は、左・右の複合コーナー(シケインに近い)中に数mの高低差がある為、まるで崖を落ちるような感覚を覚えるとされる。世界でも屈指の難度の高いそのポイントを、彼は半ばショートカットとも言える走路を通る攻略法(通称「アレックス・パス」)を見つけた。しかしこの方法は危険度が高く、他のドライバーの模倣による事故を防ぐために、翌年から全てのドライバーに対し、その攻略法の使用が禁止された。
  • CARTでの優勝後のパフォーマンス「ドーナツターン」は、当初は危険行為として大会委員会から注意を受けていたが、しかしレース自体は終わっていることやファンサービスを重視するとする彼の姿勢、ファンからの要求、なにより彼の連戦連勝振りにより、次第に黙認されるようになった。
  • 1993年サンマリノGP、最終コーナーでコースアウトしてリヤエンド部分を損傷。この損傷により車体後方から火が噴き上がり、まともに走れる状態ではなく、自身も他車にも観客にすら大変危険な状態となった。通常ならば即座に車を安全なエリアに停めてマーシャルらに消火を任せ、自身は速やかに車を脱出するべきであった。しかしザナルディは火を噴いた車で走行し続け、タンブレロコーナーのランオフエリアにマシンを止めた。この行為は当然ながら、危険行為であったとしてレース後に彼は批判された。 ザナルディが危険を知りつつ走り続けたのには理由があり、それは1989年ゲルハルト・ベルガーがクラッシュした際に起きた出火を、タンブレロコーナーのマーシャルがすばやく消した事を覚えていたため、同コーナーのマーシャルのところまで行けばすぐ火を消してくれる、と思っていたからである。

関連項目

テンプレート:Sister

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. Alex Zanardi confirmed for London Paralympics
  2. テンプレート:Cite news
  3. ザナルディがパラリンピックでふたつ目の金メダル

外部リンク

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