J・D・サリンジャー
テンプレート:Infobox 作家 テンプレート:Portal ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919年1月1日 - 2010年1月27日[1])は、アメリカ合衆国の小説家。ニューヨーク市マンハッタン生まれ。小説『ライ麦畑でつかまえて』で知られている。父はポーランド系ユダヤ人、母はスコットランド=アイルランド系だがユダヤ教に改宗した。
目次
概要
サリンジャーは、シーモア、ゾーイーなど7人兄弟と両親からなるグラース家にまつわる物語の連作を書き続けると発言していたが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表して以降は完全に沈黙し、晩年はアメリカ、ニューハンプシャー州に隠遁して40年以上作品を発表することはなかった。生涯に発表した作品の多くもグラース家やホールデン・コールフィールドにまつわるものが多い。
自らの作品『コネティカットのひょこひょこおじさん』に基づくハリウッド映画『愚かなり我が心』 (1949年) の出来映えに失望したことから映画嫌いになった。そのため、『ライ麦畑でつかまえて』の映像化を許さなかった。公に姿を現すことは滅多に無く、作品の発表も晩年は無いに等しく、謎や伝説に包まれた人物である。
『フラニーとゾーイー』頃から作品の中には東洋思想、禅の影響が色濃く、またサリンジャー自身もヨーガやホメオパシーに傾倒するなど全体的に神秘主義的傾向が強まった。そのため後期の作品では読者層が絞られていく一方、おりしもベトナム戦争などの時局も相俟ってヒッピーなどカウンターカルチャー寄りの人々の支持も少なからず集めるに至った。
生涯
幼少期から作家になるまで
1919年1月1日、ニューヨークで生まれる。父はポーランド系ユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。
1932年にマークバーニ校(ボーディングスクール)に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「(興味があるのは)演劇と熱帯魚」と答えている。しかし、学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす。この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。また田舎の保守的な学校であり、ユダヤ人に対する差別意識があったようだが、卒業まで無事過ごす。卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939年にコロンビア大学の聴講生となり、ホイット・バーネット(トルーマン・カポーティやジョゼフ・ヘラー、ノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる)の創作講座に参加する。バーネットの授業に参加して大きな影響を受けたようで、処女作『若者たち』 (The Young Folks) が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』 (1940年3-4月号) である。わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる。
1941年に『マディソン街のはずれの小さな反抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946年に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。
1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリンと結婚してしまう。
軍歴
1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月英国に派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスでは情報部隊に所属する。8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイを訪問する。『最後の休暇の最後の日』 (The Last Day of the Furlough) を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという。しかしヘミングウェイのタフな精神とは相容れなかったようである(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照)。しかしドイツとの激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。1945年11月除隊。
『ライ麦畑でつかまえて』
12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕は狂ってる』 (I'm Crazy) が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946年、シルヴィアとの結婚生活は終わりを迎え生活も大きく変化した。ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。
1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。1950年1月、『コネチカットのひょこひょこおじさん』 (Uncle Wiggily in Conecticut, ナイン・ストーリーズ収録作品) を元に作られた映画愚かなり我が心 (My Foolish Heart) をハリウッドのサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒する(それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった)。1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコードプレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否。結局作品はリトル・ブラウン社から刊行、大きな反響(詳しくはライ麦畑でつかまえてを参照)を呼んだ。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。
しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州はコネチカット河のほとり、コーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送り(家にはライフラインがなかったらしい)、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた少女の1人が高校生向け記事を書くことを条件にしたインタビューの内容をスクープとして地元の新聞に載せてしまう。このことに激怒し、社会から孤立した生活を送るようになり、高校生達との縁を切ってしまう。
その後
1955年にラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。一男一女を儲けるが、1967年に離婚。次第に発表する作品数を減らしていく。1953年に『バナナフィッシュにうってつけの日』をはじめとする短編集『ナイン・ストーリーズ』を、1961年には『フラニーとゾーイー』を、1965年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を発表するが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に1冊の新刊も発表することはなかった。
1972年、当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲。1990年頃からは約50歳年下の看護婦と結婚生活を送っていたという。
晩年は滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。サリンジャーには世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。実際にはサリンジャーは、町で「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという。住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった[2]。
1985年、作家・評論家のイアン・ハミルトンが、テキサス大学でサリンジャーの書簡多数を発見し、これを元に伝記を書いたが、校正刷りの段階でサリンジャーがこれに異議を申し立て、ハミルトンは二度書き直したものの、サリンジャーはニューヨークの法廷に姿を現し、一審でハミルトン側が勝ったが、二審で覆り、ハミルトンはサリンジャーの書簡を引用しない版(『サリンジャーをつかまえて』海保眞夫訳)を刊行した(サリンジャー事件)。
『ライ麦畑でつかまえて』の続編であるという『60 Years Later: Coming Through the Rye』がスウェーデンの出版社Nicotextから出版されると知り、その著者であるJ・D・カリフォルニアなる人物と Nicotext とを相手取り、2009年6月1日に著作権侵害で提訴した。訴状は「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた[3]。
2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去[1][4]。
長男のマット・サリンジャーは俳優になっている。
評価
サリンジャーは無垢なもの(イノセンス)に対する憧れが強い人であると言われる。サリンジャーの主人公達の多くは10代後半から20代の微妙な世代であり、例えば代表作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは、大人社会に適応しようとする反面、子供時代にはなかった「インチキ」や「エゴ」に戸惑い、うまく自己を確立することができない。サリンジャーはその戸惑いを巧みに描くことのできる作家であると評価されている。また、『フラニーとゾーイー』では、妹フラニーの宗教(イエスなど)に対する曖昧な解釈から、神経衰弱に陥ってしまう。また、世の中の偽りにも見える慈善や慈愛、人の見栄に対する嫌悪に陥るが、それを否定することもエゴなのだということを兄ゾーイによって諭される。人間は『曖昧な解釈』によって『本質』を見失い、それによって偏った知識で言わば『頭でっかち』になりやすい。そんな誰しもが持っている偏見やこうであって欲しいという願望を崩されたとき、人間は嫌悪感を覚え、自らの扉を閉ざす。そんな人間の弱さや繊細さを描いた作品である。
作品
※[1]はホールデン・コールフィールド、[2]はグラース家にまつわるストーリーを示す。
- Nine Stories, 1953、(文庫版の原書が、講談社インターナショナル)
- 『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳 新潮文庫、『九つの物語』中川敏訳、集英社文庫、新版2007年)
- Franny and Zooey, 1961、(文庫版の原書が、講談社英語文庫、1992年)
- Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour: An Introduction Stories , 1963
- 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』(野崎孝・井上謙治訳、河出書房新社、のち新潮文庫、改版2004年) [2]
- Hapworth 16, 1924, 1965、今日まで公表されている最後の作品
- 「ニューヨーカー誌」に掲載された中編小説。
- アメリカでは今日まで単行本化されていない。数年前には、実現しかがったが、事前に書評家 ミチコ・カクタニによる酷評が雑誌に掲載され('From Salinger, A New Dash Of Mystery,' The New York Times, February 20, 1997)、これにショックを受けたサリンジャー自らが企画を取り下げたと言われている。
- 日本語訳は、サリンジャー選集〈別巻〉に収録。(原田敬一訳、荒地出版社、1978年、新版1993年)
他巻は以下。『サリンジャー作品集 第6巻』(東京白川書院)にも収録。
- 【邦訳作品集】
- 荒地出版社版『サリンジャー選集1 フラニーとズーイー』(原田敬一訳、解説井上謙治)
- 『選集2 若者たち〈短編集1〉』、『選集3 倒錯の森〈短編集2〉』(各 刈田元司・渥美昭夫訳)
- 『選集4 九つの物語、大工たちよ屋根の梁を高く上げよ』(繁尾久ほか訳)
- 他に『サリンジャー作品集』(全6巻、鈴木武樹完訳、武田勝彦解説、東京白川書院、1981年、絶版)。
ナイン・ストーリーズ以外の短編群
全部で30編あった短編集から著者が9編だけ選んだ短編集が<ナイン・ストーリーズ>であり、以下はそれ以外の短編のリストである。以前アメリカの学生が無断で以下の短編集を発行したために、サリンジャー自身が抗議をしたこともあったが、一部は日本訳も行われている。
- The Young Folks (1940)
- Go See Eddie (1940)
- The Hang of It (1941)
- The Heart of a Broken Story (1941)
- The Long Debut of Lois Taggett (1942)
- Personal Notes on an Infantryman (1942)
- The Varioni Brothers (1943)
- Both Parties Concerned (1944)
- Soft-Boiled Sergeant (1944)
- Last Day of the Last Furlough (1944)
- Once a Week Won't Kill You (1944)[1]
- A Boy in France (1945)
- Elaine (1945)
- This Sandwich Has No Mayonnaise (1945) [1]
- The Stranger (1945)
- I'm Crazy (1945) [1]
- Slight Rebellion Off Madison (1946) [1],[2]
- A Young Girl in 1941 with No Waist at All (1947)
- The Inverted Forest (1947)
- A Girl I Knew (1948)
- Blue Melody (1948)
未発表の短編
- "The Last and Best of the Peter Pans" (1942)
- "The Magic Foxhole" (1944)
- "Two Lonely Men" (1944)
- "The Children's Echelon"(1944)
- Three Stories
- "Mrs. Hincher" or "Paula" (1941)
- "The Ocean Full of Bowling Balls" (1945)
- "Birthday Boy" (1946)
2013年12月に「Three Stories」に収録された3作品のデータがネット上に流失していることが確認された。この作品集は一般に公開されておらず、原稿はテキサス大学やプリンストン大学の図書館に保管され、環視付きでの閲覧のみに限定されている。一方でロンドンにおいてペーパーバックが25冊だけ印刷され一部がイーベイに出品されたことがあるため、この出品物が原本であるという報道もある[5]。
参考文献
- J・D・サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳、白水Uブックス)
- J・D・サリンジャー 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳 白水社 2003年、2006年に新書版)
- 村上春樹、柴田元幸 『サリンジャー戦記 翻訳夜話2』(文春新書、2003年)訳者あとがきも含む。
- ジョイス・メイナード 『ライ麦畑の迷路を抜けて』(野口百合子訳、東京創元社、2000年)、ISBN 4-488-01394-5
研究書ではなく、53歳のサリンジャーと同棲していたことのある女性作家の半生記。 - マーガレット・A・サリンジャー 『我が父サリンジャー』(亀井よし子訳、新潮社、2003年)
- イアン・ハミルトン 『サリンジャーをつかまえて』(海保真夫訳、文藝春秋、1992年、文春文庫、1998年)
- 森川展男 『サリンジャー 伝説の半生、謎の隠遁生活』(中公新書 1998年)
- ポール・アレクサンダー『サリンジャーを追いかけて』(田中啓史訳、DHC 2003年)
- 田中啓史 『ライ麦畑でつかまえて』ミネルヴァ書房、2006年
- 田中啓史 『「ライ麦畑のキャッチャー」の世界』 開文社、1994年
- 田中啓史編著 『イエローページ サリンジャー作品別(1940~1965)』 荒地出版社、2000年
- ウォーレン・フレンチ 『サリンジャー研究』(田中啓史訳、荒地出版社)
- 渥美昭夫、井上謙治 『サリンジャーの世界』 荒地出版社、1969年
- 竹内康浩 『サリンジャー解体新書「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』 荒地出版社、1998年
- 床井雅美「A Perfect Days for Ortgies オートギスにうってつけの日」
関連項目
- 1989年公開の映画。ジェームズ・アール・ジョーンズ演じるテレンス・マン(Terence "Terry" Mann)のモデルがサリンジャーであり、原作のW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』ではサリンジャーの実名になっている。
出典
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 【サリンジャー氏死去】晩年の暮らしぶりが判明…
- ↑ 『サリンジャー氏、「ライ麦畑でつかまえて」続編をめぐり提訴』 ロイター、2009年6月1日。
- ↑ 「『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー氏死去」『朝日新聞』、2010年1月30日、13版、39面。
- ↑ 米作家J・D・サリンジャーの未出版作品がネットに流出 - CNN