軽大娘皇女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

軽大娘皇女(かるのおおいらつめ、生没年不明)は、日本皇族

生涯

允恭天皇皇女。母は皇后忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)

古事記』によれば大変に美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれるようだ、という意味を込めて「衣通姫」と呼ばれた[1]

同母兄であった木梨軽皇子と情を通じ、それが原因となって允恭天皇が崩御した後に木梨軽皇子は失脚、伊予国流刑となる。軽大娘皇女はその後を追い、伊予の国で2人は自害して果てたという(衣通姫伝説)。

日本書紀』においては2人の仲が発覚した直後の允恭天皇24年に軽大娘皇女本人が伊予へ流されている。

脚注

テンプレート:Reflist
  1. 『日本書紀』では「衣通姫」と称されたのは忍坂大中姫の同母妹である弟姫とされている。