華佗

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華 佗(か だ、? - 建安13年(208年))[1]は、中国後漢末期の薬学鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な医師。世界最初の外科医ともいわれる。[2]本籍は沛国譙県(現在の安徽省亳州市。また河南省永城市という説もある) 。「華陀」とも書く。なお、「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。は不明[3]

経歴

徐州で学問し『経書』を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたり、黄琬に招聘されたりしたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になる筈だとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」[4]と呼ばれる体操健康法(導引)の発明者とも言われている。

その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛や目眩の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りに行くといって故郷に戻って、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。曹操が調べた結果、妻の病気は偽りと判明したので、これに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。華佗は死ぬ直前に、持っていた1冊の医療書を牢番に与えようとしたが、罰を恐れた牢番が断ると自らの手で焼き捨ててしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまった事、またその事により庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療する事ができず、夭折させてしまった事を、後々まで後悔したと言われている。

三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝には、彼の行った数々の治療や診断の例が記録されている。

  • 陳登を診察した際、陳登の好物だった刺身から感染した寄生虫に巣くっていると診断した。治療として煎じ薬を2升作って半分ずつ飲ませ、寄生虫を吐き出させた。華佗は3年後に再発すると言い、果たしてその通りになったが、その時華佗やそれに代わる医者がおらず、陳登は死んでしまった。
  • 李通の妻が重病にかかると、流産した胎児が残っているためと診断した。李通は胎児はもう降りたと言ったが、華佗は胎児は双子で、一人が残っているのが病因と診断し、果たしてその通りだった。
  • 県の役人の尹正が、手足が熱っぽく、口の中が乾いて、人の声を聞くと苛立ち、小便が通じない、という症状に悩まされていた。華佗は熱いものを食べ、汗が出れば平癒するが、出なければ3日で泣きながら絶命すると診断した。尹正は熱いものを食べたが汗は出ず、果たして診断通りの死に方をした。
  • 軍の役人の李成が咳に苦しんで、時に血膿を吐いていた。診察した華佗は病原は肺ではなく腸炎と診断し、さらに18年後にちょっとした再発があるからと、その分も合わせて粉薬を出した。その5・6年後、李成の親類に同じ症状になった者がいたので、李成の親類は後で華佗から貰って来るからと李成に頼み、予備の薬を融通してもらった。親類は治癒すると、約束通り華佗のいる譙に向かったが、丁度華佗が曹操に捕縛され、薬は手に入らなかった。薬のない李成は、華佗の診察を受けた18年後に病が再発して死んでしまった。
  • 重病に苦しむある郡守の様子を診たところ、激怒させるのが最も効果的な治療法だと診断する。そして華佗は高額の薬代を貰いながらも治療を行わず、ついには郡守の悪口を書いた手紙を残し去って行った。これに激怒した郡守が数升の血を吐いたところ、すっかり病気は治ってしまった。

『三国志演義』における華佗

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歌川国芳画『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』

小説『三国志演義』では、まず第15回に登場。董襲の提案と虞翻の仲立ちにより孫策の元に現れて、宣城にて孫権を救い出すため重傷を負った周泰を治療する。

また第75回では、龐徳との戦闘で毒矢の傷を受けた関羽を治療するため、荊州に自らの意思で出向き、右腕の肘の骨を削ってトリカブトの毒を除いている。この時、関羽は治療中は腕を柱に固定するという華佗の提案を断り、酒を飲みながら平然と馬良と碁を打っていたと描写されている。華佗は関羽の強靭さに多いに驚き、関羽もまた黄金百両の礼を申し出たが、華佗は「自分がここに来たのは将軍の仁義を慕っての事」と、それを断り去っていった。正史の「関羽伝」にも同様の逸話があるものの、治療した医者が華佗とは書かれていない。また実際の年代から言うと、この事件は既に華佗が没した後の、建安24年(219年)にあたる。

その後の第78回で、神木を切った後に頭痛に苦しむようになった曹操に召し出される。華佗は病根は頭にあるため薬の治療は効かないと診断し、「麻肺湯をお飲み頂き、然る後に鋭利な刃を用いて脳袋を開けば、病根を取り除く事ができます」と治療法を告げる。「お前は予を殺すつもりか」と怒った曹操に対し、華佗は関羽が肘の骨を削られても動じなかった事を引合いに出す。しかし曹操は、「肘を切り開く事はできても、脳を切り開く事などできるものか。お前は関羽に通じるであろう者であるから、この機会に仇を討とうとするのか」とさらに怒り、華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまうのである。この時荀彧は既に死んでいたため、命乞いした人物は賈詡に変えられている。

医書「青嚢書」[5]を残し、毎日華佗の世話をしていた呉という姓の獄吏(周囲から「呉押獄」と呼ばれている)に死の直前に渡すが、獄吏の妻が「医術を極めても、結局は獄死するのでは何もならない」と、夫の身を案じて焼き捨ててしまう。僅かに焼け残った箇所は、鶏や豚の去勢術などという有り様になっている。

華陀の手術については、三国志と後漢書に記載がある。彼は腹部を開いて患部を切除し、腹腔を洗浄し、切開部を縫合し、薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促した。また、麻沸散とよばれる粉末の麻酔薬を考案し、手術の前にブドウ酒とともに投与して、患者の意識を失わせた。その処方は今に残っていないが、チョウセンアサガオ、アコニット根、シャクナゲ、ジャスミン根を含んでいたと考えられる。著書は多かったが残っていない。手術は儒教の教えに反するとされたために、西洋の医師により導入されるまで、行われることはなかった。[6]

参考書

  • 『図説 世界を変えた50の医学』2014年 スーザン・オールドリッジ著 野口正雄訳 「華陀」pp90-91 原書房 ISBN 978-4-562-04996-7


脚注

  1. 110年頃生まれ207年洛陽で亡くなったとも書かれる。オールドリッジ[2014:90] また、他にも、140年生まれ、141年生まれ、145年生まれ、等の説がある。
  2. オールドリッジ[2014:90]
  3. 魏書』華佗伝に引く裴松之の言では、華旉(教化を敷く意義)で、字の元化(大いなる教化の意義)と関連があり、そのため諱は「旉」または「尃」が正しいと述べている。
  4. 虎・鹿・熊・猿・鳥の5種類があり、華佗の弟子の呉普がこれを実行していたところ、90歳になっても丈夫な体を保てたという(『後漢書』方術伝)。
  5. 関羽を治療する際に華佗が青い袋を持って訪れた、という描写がある。
  6. オールドリッジ[2014:90]

登場作品

映画

関連項目

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