猿橋
猿橋(さるはし、えんきょう)は、山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋。国の名勝に指定されている。
概要
江戸時代には「日本三奇橋」[1]の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。
構造
猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。幅が狭ければ橋脚を河原に下ろさずに済み、それが高所にあれば水位が高くなっても川の水に接しない。このような地点に架橋できれば、大水の影響を受けずに済む。しかし、そのためには橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代の日本にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。
歴史
猿橋については、7世紀に渡来人の志羅呼が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。古くは吊り橋だったとする推測もあり、刎橋になった時期は不明である。1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、歌川広重は天保12年(1841年)に甲府町人から甲府道祖神祭りの幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れた際にスケッチを行い(『甲州日記』所載)、後に大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。また荻生徂徠など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成しており、明治期には富岡鉄斎が「甲斐猿橋図」(大木コレクション)を描いている。
1932年(昭和7年)に国の名勝に指定された。1934年に上流に新猿橋が造られ、国道(当時は国道8号、現在は山梨県道505号)はそちらを通るようになった。1973年(昭和48年)には別の新猿橋が下流に造られ、国道20号が通るようになった。これら二つは今も並存する。
古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。
この橋の近くでは室町時代の1426年(応永33年)に鎌倉公方足利持氏配下の一色持家と甲斐の国人武田信長が交戦、一色が勝利して武田信長を鎌倉へ捕虜として連れ去ったとされる(猿橋の戦い)。
画像
- SaruHashi2005-8b.jpg
北から見た猿橋(2005年8月)
- Yatsuzawa-aqueduct bridge-1.jpg
猿橋から下流方向の眺め(2008年9月)
下に見えるのは八ツ沢発電所一号水路橋、上に見える赤い橋は国道20号の新猿橋 - Hiroshige Kai Saruhashi.jpg
歌川広重 『六十余州名所図会 甲斐 さるはし』
脚注
参考文献
- 松村博『日本百名橋』、鹿島出版会、1998年。ISBN 4-306-09355-7