滝川雄利

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テンプレート:基礎情報 武士 滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊臣政権下では羽柴下総守と称されていた。常陸片野藩初代藩主。

『星合系図』によると伊勢北畠家の傍流木造氏の一族といわれ、父は木造俊茂という。また、木造具康(兄弟説もある)の三男、家臣の柘植三郎兵衛に嫁いだ具康の娘の子・木造具政の三男という説もあり、定かではない。母は木造俊茂の娘との説がある。

生涯

天文12年(1543年)、誕生。はじめは源浄院主玄と名乗り、として木造氏に仕えた。永禄12年(1569年)、織田信長北畠家攻略戦の時に、信長の家臣滝川一益にその才能を見出されて、柘植保重と共に当主・木造具政を説得し寝返らせ、織田軍の勝利に貢献した。この時、還俗して一益の娘婿として迎えられ、滝川姓となる(この当時のは別名として伝わる一盛(かずもり)、雅利(まさとし)のいずれかであったと思われる)。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(のち信意、織田信雄に改名)の付家老となる。

天正4年(1576年11月25日、雄利は長野左京亮軽野左京進と共に軍勢を率い、北畠具教の居城・三瀬御所を密かに包囲。具教の近習を寝返らせて、太刀を抜けないように細工して、具教を討ち果たした(三瀬の変)。

天正6年(1578年)、信意の命によって伊賀国丸山城を修繕するが伊賀国の豪族達の奇襲に遭い伊勢国へ敗走した。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には伊賀豪族を調略して結束力を弱め、勝利に貢献し、信雄は雄利を伊賀国守護に任命した(『諸国廃城考』)。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き伊賀国を支配した。翌天正10年(1582年)、本能寺の変後に北畠具親が一揆を起こした際は、これを鎮圧し、「大剛之者也」と評価されている(『勢州兵乱記』)。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると重ねて偏諱の授与を受けて[1]雄利(または雄親(かつちか))と改名した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、はじめ羽柴秀吉の内応勧誘を断って日置大膳亮服部正成と共に伊勢国松ヶ島城に籠城したが、主君・信雄が和睦を決意すると岳父の一益を通じて秀吉に接近、信雄に単独講和をさせた。その後、秀吉側の講和の使者として、徳川家康の元へ派遣された。

戦後は羽柴姓を賜り、以後、北伊勢の運営を任され、天正13年(1585年)の『織田信雄分限帳』では3万8370貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。

その後は九州征伐小田原征伐に参加した。九州征伐では、戦後に石田三成長束正家小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。小田原征伐では北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している(『天正記』)。信雄改易後もそのまま領国を安堵、伊勢神戸城2万石を領した。秀吉の天下統一後は御伽衆の一人となる。文禄の役では肥前名護屋に参陣した。文禄3年(1594年)には7000石、文禄4年(1595年)には、さらに5000石を加増されている。同年、秀次事件にも連座しているが、叱責されただけで特に処罰は受けずに済んでいる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、軍勢400名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城・神戸城に籠城した。このため戦後に改易され再び出家した。後に徳川家康に召し出されて再び滝川姓を名乗り、常陸片野2万石の所領を与えられ、家康の御伽衆の一人となった。

慶長10年(1605年)、この年に亡くなった娘を悼み京都金戒光明寺塔頭龍光院を建立した

慶長15年(1610年)、死去。

関連項目

脚注

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  1. 朝日日本歴史人物事典(コトバンク所収)「滝川雄利」の項(小和田哲男執筆)