柴田侑宏

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柴田 侑宏(しばた ゆきひろ、1932年 - )は、日本の劇作家・舞台演出家。宝塚歌劇専属として活躍している。

略歴

大阪府出身。芝居好きの母に連れられて幼い頃から舞台に親しむ。13歳のとき、豊橋で終戦を迎える。

1951年大阪府立高津高等学校を卒業後、演劇の道を志して関西学院大学文学部美学科に学び、卒業後に宝塚歌劇団の脚本募集を知って応募したところ入選、演出家助手として1958年、宝塚歌劇団に就職する(宝塚の舞台を観劇したのは脚本入選の時が初めてだったという)。

白井鐵造高木史朗内海重典などの下で歌劇団の演出作法を学んだ後、1961年、当時歌劇団が中劇場として公演していた新芸劇場で初演出。翌1962年、歌劇団本拠・宝塚大劇場でも初演出を果たし、以後歌劇団専属劇作家・演出家として活躍。当初は劇団方針から日本物の芝居担当者として働いたが、1972年の『さらばマドレーヌ』から外国を舞台とした作品も手がける。1976年、芸術選奨新人賞受賞。1981年には、同歌劇団理事に就任。

1980年代ごろから眼病に悩まされ、病気による視力低下のため、1993年以降は口述筆記にて脚本を執筆し[1]、1998年の宝塚大劇場公演『黒い瞳』以降は脚本のみ執筆し、演出を他の担当者に任せている。2005年の『霧のミラノ』以来新作の上演はないが、2006年以降も毎年過去の柴田の作品が再演されている。作・脚本を手がけた作品数は現在まで60作以上にのぼる。

2001年から同歌劇団顧問。2005年宝塚音楽学校のカリキュラム編成アドバイザー(演劇部門)に就任している。

夫人は宝塚歌劇団卒業生・珠梨英(1963年~1967年在籍)。

演出家像

2009年現在の歌劇団において、植田紳爾に次ぐベテラン作家(植田の入団が1年早い)であり、50年の経験を有する重鎮である。

本人の「芝居とは人間を描くもの」という信条の通り人間ドラマの構築が巧みで、話の破綻・矛盾も滅多になく、『あかねさす紫の花』、『バレンシアの熱い花』、『小さな花がひらいた』、『うたかたの恋』など、多くの作品が再演されている。

劇団内では指導の厳しさで知られているが、舞台の完成度を高めようとする柴田の姿勢に共感する歌劇団生も多く、人望は厚いといわれる。

剣幸平みち神奈美帆杜けあきらも柴田に共感した生徒で、彼女らは歌劇団に希望してサヨナラ公演演目を『川霧の橋』(剣)、『たまゆらの記』(平・神奈)、『忠臣蔵』(杜)と柴田作品としたあたりにも柴田の人望の高さが伺える。

日本が舞台の作品

幅広い時代のオリジナル作品を執筆。

飛鳥〜平安時代

初演出以来多数執筆してきた、一連の“王朝ロマン”作品がよく知られる。

江戸時代

原作を有するもの

日本文学や、漫画などを翻案し、秀作の脚本でも知られる。

山本周五郎作品が原作のもの

  • いのちある限り(1971年/『野分』『釣忍』より)
  • 小さな花がひらいた(1971年/『ちいさこべ』より)
  • 落葉のしらべ(1972年/『落葉の隣り』より)
  • 白い朝(1974年/『さぶ』より)
  • 沈丁花の細道(1984年/『半之助祝言』より)
  • 川霧の橋(1990年/『柳橋物語』『ひとでなし』より)

外国が舞台の作品

オリジナル

原作を有するもの

劇中音楽について

初演出の頃から、同時期の入団だった作曲家・寺田瀧雄と組むことが多く、ほぼ40年にわたり少なくとも50本以上の作品で協働、柴田作詞・寺田作曲による多くの宝塚メロディーで舞台を盛り上げたが、寺田は交通事故で急逝。寺田の遺作となった『凱旋門』が最後のコンビ作となった。

寺田の死後の柴田の新作では、日本ものでは吉田優子(寺田の弟子)、ヨーロッパ作品では高橋城、斎藤恒芳などが作曲にあたっている。

脚注

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外部リンク

テンプレート:宝塚歌劇団
  1. 歌劇2010年9月号、演出家随想「百周年後半の変遷」より