松平茂昭
松平 茂昭(まつだいら もちあき)は、幕末の大名、明治初期の華族。越後糸魚川藩第7代藩主(越前松平家分家9代)、越前福井藩第17代の藩主であり[1]、維新後は福井藩知事、侯爵となる。
経歴
越後糸魚川藩主・松平直春の四男。正室は徳島藩主・蜂須賀斉裕の娘(鷹司標子の養女)・賀代姫、継室は久我建通の娘・幸子、広橋胤保の娘。子に康荘(次男)、永頼(三男)、竹屋春光(四男)、藤波茂時、娘(鍋島直庸正室)、娘(加藤泰通正室)、娘(戸田康保正室)。
嘉永5年(1852年)4月1日、将軍徳川家慶に御目見する。嘉永6年(1853年)2月1日、元服する。この時の諱は直廉(なおきよ)。安政4年(1857年)5月4日、実父の直春の隠居により、糸魚川藩松平家の家督を相続する。同年12月16日、従五位下日向守に叙任する。
安政5年(1858年)7月5日、安政の大獄で松平慶永が隠居・謹慎処分となった越前松平家の家督を相続する。同年10月21日、従四位上左近衛中将・越前守に昇進する。また、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂から偏諱を受け、諱を直廉から茂昭に改めた。元治元年(1864年)4月13日、正四位下となる。
藩主となったものの、藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎、中根雪江、横井小楠などの藩政を主導する改革派の家老・藩士が多数いたため、茂昭には実権はほとんどなく、傀儡の当主の立場であった。慶応元年(1865年)の第一次長州征討では総督徳川慶勝(元尾張藩主)の下、副総督となっている。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない、福井藩知事となった。明治4年(1871年)7月、廃藩置県にともなって免官された。明治17年(1884年)7月、伯爵を授けられた。明治21年(1888年)1月、侯爵に陞爵する。
明治23年(1890年)7月、55歳で死去した。