斎藤妙椿

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 武士 斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代武将・僧侶である。美濃守護代斎藤宗円の子で斎藤利永の弟で、甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。また甘露寺元長の娘を養女とし、尾張上四郡の守護代織田敏広に嫁がせている。妙椿は法名(実名は不明)で善恵寺[1]に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家と言う。

従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない(後述)。

生涯

幼少時から出家し善恵寺で修行した後、善恵寺に子院・持是院を構えた。宝徳2年(1450年)に妙覚寺から世尊院日範を招き常在寺を建立。長い間僧として持是院で生活を送っていたが、長禄4年(1460年)に兄利永が亡くなると、甥である新守護代斎藤利藤を後見するため、加納城へ移りここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。美濃守護土岐成頼の被官ではあるが、同時に足利将軍の直臣という立場に立とうとし、更に美濃周辺数ヶ国の支配をも目論んだ。後に室町幕府奉公衆となり、官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位大僧都に昇っている。

応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。その一方で多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。

文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破する。

文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させ、さらに文明6年(1474年)6月、越前に赴いて朝倉孝景甲斐敏光の両者を調定の末に和解させた。この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。

京では厭戦気分が漲り、土岐成頼は文明9年(1477年)冬、足利義視義材父子を連れて美濃に下国した。文明10年(1478年)に婿の織田敏広に加勢して尾張に出兵するなど、その兵力は周辺諸国にも行使され、書状にて飛騨の姉小路氏と三木氏の抗争を調定したり、6代将軍足利義教の三十三回忌法要を美濃で営むなどをした。また応仁の乱後、主君の守護土岐成頼が足利義視・義材父子を美濃に伴ったのは妙椿の意向によるものだった 。

文明11年(1479年)2月に可児郡明智で隠退し、翌文明12年(1480年)2月21日に腫れ物を患い死去。応仁2年に建立した瑞龍寺に葬られた。甥で養子である斎藤利国(妙純、利藤の異母弟)を重用するよう成頼に遺言したため、死後100日を経ずして利国と利藤の兄弟争いが勃発する。

人物

  • 一条兼良東常縁宗祇万里集九専順ら一流の文化人とも親交があった。一条兼良は応仁の乱の最中の文明5年(1473年)、妙椿に招かれ美濃に下り連歌百韻に参加している。また、美濃篠脇城主東常縁は応仁の乱勃発時に遠く下総に居り、美濃の所領には兄である東氏数がいたが、富島氏と通じていると見なされ、妙椿の攻撃を受け逃亡、所領は妙椿に占領されてしまった。常縁はこれを悲しみ歌に詠んだところ、この歌が人伝に妙椿に伝わり、常縁が直接自分に歌を送ったならば所領を返還しようと言い、その後、2人の間で歌の応答があり、所領返還が決まったという。宗祇も応仁の乱中、しばしば美濃を訪れ連歌の会を催している。
  • 軍事・政治の両方に通じ、経済力を持っていた妙椿に対して官人壬生晴富は「無双の福貴、権威の者なり」[2]、官人大宮長興は「この者、一乱中種々張行」[3]、『大乗寺社雑事記』によると「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」と評されている[4]

利藤と妙椿

かつては斎藤利藤と同一人物と考えられていたが、横山住雄は著書『美濃の土岐・斎藤氏 利永・妙椿と一族』の中で斎藤利永の弟ではないかと論考していた。その後に蜷川親元の日記『親元日記』や正徹の歌集「草根集」の中の記述から利藤の叔父(利永の弟)であることが判明し、妙椿と同一人物とされた妙椿自体は守護代にはなっておらず、利永の次は利藤が守護代職を継承している。また妙椿は利永の弟で善通寺と称された人物とも同一人物とされ、禅僧東沼周巌の詩文集『流水集』には斎藤越前守(利永)の弟に善恵寺がいるとある。

登場作品

小説
  • 宮本昌孝『妄執の人』(徳間文庫『将軍の星』収録)

関連項目

参考文献

  • 『岐阜市史』
  • 『朝日日本歴史人物事典』

脚注

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  1. 岐阜県加茂郡八百津町にある浄土宗寺院「善恵寺」。
  2. 壬生晴富の日記『晴富宿禰記』
  3. 大宮長興の日記『長興宿禰記』
  4. 『朝日日本歴史人物事典』