富士門流
富士門流(ふじもんりゅう)は、日蓮宗・法華宗系諸門流のうち、日蓮(にちれん)の高弟「六老僧」の一人、日興(にっこう)の法脈を継承する諸本山とその末寺に対する総称の一つ。日興門流、富士派、興門派とも呼ばれる。
本山としては上条大石寺(日蓮正宗)、下条妙蓮寺(日蓮正宗)、保田妙本寺(単立)、京都要法寺(日蓮本宗)、西山本門寺(単立・法華宗興門派)、北山本門寺(重須本門寺)(日蓮宗)、伊豆実成寺(日蓮宗)、小泉久遠寺(日蓮宗)の八山 (興門八本山) があり、それ以外の本山格寺院として讃岐本門寺(日蓮正宗)、日向定善寺(日蓮正宗)がある。
現在、富士門流(日興門流)に属する各門流は、独立した宗派を形成しているもの(日蓮正宗・日蓮本宗)、勝劣・一致の3宗派が対等合併して成立した日蓮宗に属するもの(興統法縁会)、単立の宗教法人となっているもの(西山本門寺・保田妙本寺)などにわかれ、単一の宗派として組織されていない。
目次
教義
所依の経典・法華経に対する解釈では(本迹)勝劣派の立場に属する。本仏論では興門八本山において、西山本門寺、保田妙本寺、北山本門寺、小泉久遠寺、柳瀬実成寺、京都要法寺の六寺は釈尊本仏論を主張する。 テンプレート:Main 一方、上条大石寺と下条妙蓮寺の二寺は日蓮本仏論を展開する[1]。
富士門流の末流と本山
- 日興--日目--日道………上条大石寺
- 日興--日目--日郷………保田妙本寺・小泉久遠寺・日向定善寺
- 日興--日目--日尊………京都要法寺・伊豆実成寺
- 日興--日代………………西山本門寺
- 日興--日澄--日順………北山本門寺重須談所学頭系
- 日興--日華--日妙………北山本門寺重須大坊派
- 日興--日華--日相………下条妙蓮寺
- 日興--日仙………………讃岐本門寺
歴史
古くから富士門流・日興門流と称し、浄土真宗にみられるような強固な単一組織はつくらなかったが、人的交流、学問的交流を通じ、ゆるやかに結びついていた。
鎌倉時代
宗祖大聖人御入滅時、葬送の様子を克明に残されたのが日興上人の「宗祖御遷化記録」である。これによると、本弟子6人が定められ、「不次第(ふしだい=順番ではない)」とした上で、実際には法臘(ほうろう=僧になってからの年数)の短い方から長い方へ順に日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭の六名の名が記されている。
また、四条左衛門尉、富木五郎入道、太田左衛門入道、南条七郎次郎、などの有力信徒と日興、日朗、日昭、日持の本弟子4人が参列し、日昭と日朗が棺の前陣後陣に列し、日向、日頂の2人は参列していなかったことが分かる。[2]
その後、御遺命に基づき、六老僧はじめ甲斐駿河を教線にもつ日興門下を中心に輪番で墓所を給仕した。輪番制度は三回忌を迎える弘安7年頃は幕府の弾圧が加えられ始めたことも影響し破綻をきたし、宗祖三回忌法要ですら参集することが出来なかった。これにより正式に日興上人が住持として身延山久遠寺を受け継がれ、3年間別当(住持)として在職された。日蓮正宗第4世日道上人の上古文献『御伝土代』には「斯て日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法を致し公家関東の奏聞をなして三カ年が間身延山に御住あり」とあるので、宗祖入滅以降の輪番時期と日興上人晋山の時期を的確に記述する文献である。
[3][注釈 1]その後、先述した事情によって大聖人の遺言である墓所輪番制度が機能しなくなったことを嘆かれていた折、身延山に入山した六老僧の一人、佐渡阿闍梨日向上人は教義面で日興上人と対立するようになるが、地頭の波木井実長(はぎりさねなが)の後援を取り付け[4]、身延山久遠寺の第二代住持となる[注釈 2]。日興上人の教化により入信したにも拘らず、日向上人を師と選択した地頭・波木井実長に対し、これと決別した日興上人[5]は身延を離山、地頭・南条時光の招請に応じて、富士山麓大石ヶ原(おおいしがはら)に上条大石持仏堂[注釈 3]、重須本門寺などを建立した[6]。
室町時代
テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲 テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲という説がある一方で、本因初住の深義は宗祖大聖人以来富士門流、就中石山派によって受け継がれているものであるという説がある。本仏論については脚注の文献資料参照。
江戸時代
上条大石寺に堅樹院日寛(1665年-1726年)があらわれ、六巻抄を著作し三重秘伝など大石寺教学を打ち立て、徹底的な文献考証に基づき他の日興末流との差別化を図り、石山派の正統性を打ち出した。
明治初期 (八山合同)
富士門流の本山・末寺は江戸時代の寺請檀家制度の下でも、脈々と法燈を保っていた[7] が、明治維新直後の天皇神格化、神道国教化(神仏分離令・大教宣布の詔)、廃仏毀釈(全国で仏教寺院の破壊)の後、明治政府は仏教各派に対し一宗一管長制を打ち出し、1872年(明治5年)日蓮を宗祖とする諸門流は苦渋の末、合同教団である日蓮宗を形成した。
ただし、明治政府の強制による形式的合同に過ぎなかったので、強引な国家神道布教策につまづき、政府の統制が緩むと、合同後2年の1874年(明治7年)に教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分裂、富士門流は勝劣派に属した(勝劣五派[注釈 4])。
さらに2年後の1876年(明治9年)、日蓮宗勝劣派は教義や門流の違いにより解体、富士門流は興門八本山とその末寺からなる合同教団として日蓮宗興門派を組織した。宗務院は静岡県富士宮市の重須本門寺におかれ、八本山より輪番制で管長法主を選出するなどの組織機構が整えられ、1899年(明治32年)には本門宗と改称した。
八本山それぞれの実質的な教義上の独立・末寺における信徒の自派信仰は保たれていた。
明治中期から太平洋戦争中 (大石寺の独立)
そのような中、1900年(明治33年)大石寺とその末寺87ヶ寺が1872年(明治5年)の合同以来続けられた内務省への一宗単独請願を結実させ、日蓮宗富士派として本門宗から完全独立を達成。1912年(明治45年)6月に日蓮正宗と改称して現在に至る。
その後対米開戦が近づいてくると、当局は1940年(昭和15年)宗教団体法を制定、宗祖を同じくする仏教諸派に組織を統合するよう圧力をかけ、1941年(昭和16年)、それまで9派あった日蓮系の諸宗派は4派に統合された。この時も富士門流においては、日蓮正宗のみが合同拒否・単独維持の請求を文部省宗務局に通し[8]、そのまま独立を保った。テンプレート:See
一方本門宗は、顕本法華宗、日蓮宗とともに「三派合同」を行い、それぞれの組織を解体して対等合併[9]し、日蓮宗と公称した(1941年、昭和16年)。富士門流の七本山とその末寺は富士門流・興門派の独自色を出す為、この日蓮宗の内部で興統法縁会を組織し、本門宗の前管長由比日光(西山本門寺49世)が初代会長に就任した。
これによって全日蓮門下は日蓮正宗、日蓮宗、法華宗、本化正宗の4宗派となった。
太平洋戦争後
1945年(昭和20年)、GHQの指令により宗教団体法が廃止されて統合の強要はなくなった。その中で、富士門流の八本山の内、
- 大石寺は戦前と同じく日蓮正宗の本山としての活動を継続、教勢は末寺600カ寺以上に飛躍的に発展。
- 京都要法寺とその末寺約50ヶ寺は、1950年、日蓮本宗として日蓮宗から独立。旧末寺34ヶ寺は「合同」を維持して日蓮宗に残留。
- 下条妙蓮寺とその旧末寺6ヶ寺は、1950年12月、日蓮正宗に合流。のこる旧末寺1ヶ寺も1960年に日蓮正宗に合流。
- 西山本門寺は、1957年3月、本山のみ単独で日蓮正宗へ合流。1975年、単立の宗教法人となる。
- 保田妙本寺とその旧末寺4ヶ寺は、1957年4月、日蓮正宗に合流。1993年、保田妙本寺と末寺4ヶ寺は単独の宗教法人となる。旧末寺9ヶ寺は「合同」を維持して日蓮宗に残留。
- 下条妙蓮寺、讃岐本門寺、日向定善寺が日興門流の伝統を受け継ぐ上条大石寺に合流して本迹勝劣派、日蓮本仏論となった。
残りの三本山とその旧末寺は、単一の宗派として独立を回復することはなく、
- 北山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺の三本山とその旧末寺、および西山本門寺の旧末寺全12ヶ寺は「合同」を維持して日蓮宗に残留。
- 興統法縁会は北山本門寺を縁頭寺として再編・存続。
- かつて本門宗の総本山で、宗務院がおかれていた北山本門寺は、日蓮宗内における七本山のひとつとなっている。
富士門流主要寺院の現況
- 富士五山(富士近辺の興門八本山)
- 上条大石寺:鎌倉時代以来、明治政府の仏教弾圧期を除き、独立宗派を形成。1912年、日蓮正宗公称。国内直末650ヶ寺。世界50カ国以上に寺院・布教所。
- 北山本門寺(重須本門寺):本門宗の一員として三派合同に参加して以来、日蓮宗興統法縁会の縁頭寺。旧末寺のうち36ヶ寺も興統法縁会に所属。
- 西山本門寺:本門宗の一員として三派合同に参加。1957年、日蓮宗を離脱し、その後1975年まで日蓮正宗に帰属。1975年より単立となり、法華宗興門流を名乗る。国内直末6ヶ寺、その他の旧末寺12ヶ寺は興統法縁会に所属。
- 下条妙蓮寺:本門宗の一員として三派合同に参加。1950年、旧末寺の一部とともに日蓮宗をはなれ、日蓮正宗に合流。
- 小泉久遠寺:本門宗の一員として三派合同に参加し、旧末寺4ヶ寺とともに興統法縁会に所属。
- 静岡県外・富士遠方の興門八本山
- 八本山以外の本山格寺院
合同を維持している富士門流寺院
日蓮宗に残留した富士門流の本山や末寺は、派内で「興統法縁会」を組織し、宗祖に対する「大聖人」の尊称、教義や本尊の勧請様式、僧侶の袈裟衣、読経作法などの化儀において、日興門流の独自性を保ちつづけることに腐心している。
関連項目
興門八本山が所属する各宗派
- 日蓮正宗 1900年、本門宗から独立、1912年、現在の名称に。
- 日蓮本宗 1950年、日蓮宗から独立
- 法華宗興門流 1957年、西山本門寺が日蓮宗との合同を解消して日蓮正宗に参加。のち日蓮正宗から独立して単立の宗教法人に。
- 保田妙本寺 1993年、旧末寺4ヶ寺とともに日蓮正宗を離れ、単独の宗教法人に。
- 旧本門宗 1876年、明治政府による仏教弾圧下で富士門流の形式的合同教団として成立、1941年、昭和の軍部による宗教統制下で勝劣派、一致派の3宗派がそれぞれの宗派を解消して対等合併する三派合同により、新日蓮宗に併合。
- 日蓮宗 1941年、三派合同により、一致派の旧日蓮宗、勝劣派の本門宗・顕本法華宗が対等合併して成立。宗内の富士門流諸寺院は興統法縁会を組織して教義や儀式面における富士門流としての独自性維持に腐心している。
富士門流の寺院一覧(宗派別) ( )内は統括する旧興門八本山
- 日蓮正宗の寺院一覧(上条大石寺・下条妙蓮寺)
- 日蓮本宗の寺院一覧(京都要法寺)
- 法華宗興門流の寺院一覧(西山本門寺)
- 興統法縁会(日蓮宗内の富士門流寺院)の寺院一覧(北山本門寺・小泉久遠寺・伊豆実成寺)
脚注
- ↑ 日蓮本仏論の根拠となる『開目抄』『諸法実相抄』『就註法華経口伝』『本尊問答抄』『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』他は日蓮正宗が真蹟とする。この中で、国柱会が主催する日蓮聖人門下連合会(京都要法寺も所属)はテンプレート:要出典範囲する。保田妙本寺、北山本門寺、小泉久遠寺、柳瀬実成寺、京都要法寺の各本山は、テンプレート:要出典範囲とし、日蓮聖人門下連合会同様に釈尊本仏論を主張する。
下記に日蓮正宗大石寺が展開する日蓮本仏論の根拠の一部を示す。
- 夫(それ)仏は一切衆生に於て主師親の徳有り。(蓮盛抄 建長七年三四歳 平成新編御書28)
- 日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。(開目抄 文永九年二月 五一歳 平成新編御書577)
- 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄(むけんじごく)の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし。(御義口伝 平成新編御書1771)
- 末法の仏とは凡夫なり。凡夫僧なり。(中略)僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧とも云はるゝなり。(御義口伝 弘安三年正月十一日 平成新編御書1779)
- 凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり。(諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳 平成新編御書665)
- 上条大石寺の本山・末寺 本山塔中16/末寺39/末寺塔中・孫末6
- 京都要法寺の本山・末寺 末寺83/うち出雲国(現島根県)に39ケ寺
- 北山本門寺の本山・末寺 本山塔中6/末寺27/末寺塔中2/讃岐本門寺および同寺の塔中・末寺11
- 西山本門寺の本山・末寺 本山塔中6/末寺16
- 下条妙蓮寺の本山・末寺 本山塔中7/末寺6
- 小泉久遠時の本山・末寺 本山塔中3/末寺3
- 保田妙本寺の本山・末寺 本山塔中2/末寺8/日向定善寺および同寺の塔中・末寺27
- 伊豆実成寺の本山・末寺 本山塔中2/末寺4
注釈
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