内藤信成

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内藤 信成(ないとう のぶなり)は、戦国時代から江戸時代前期の武将譜代大名。一説に松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟とされる。

出自

藩翰譜』では嶋田某の子で、内藤清長の養子、あるいは母は松平広忠の寵愛を受けて信成を身籠り、嶋田景信に嫁して3月後に出産、事情を知った清長がこれを養子として育てたとの所伝ありとする(新人物往来社刊行本『新編 藩翰譜』2巻101頁)。また生母は広忠の侍女で、小野次郎右衛門の娘という説もある(汲古書院『朝野旧聞藁』658頁に「秘録曰く」として)。一方、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では、内藤右京進某(義清)の娘(清長の姉妹)と嶋田久右衛門景信の子(新訂13巻183及び185頁)とされている。

なお『寛永諸家系図伝』では内藤家長の養子として扱い、家長が実子をもうけたために、別に家康に仕えたとされていた。しかし天文15年(1546年)生まれの家長が、年長の信成を養子とする理由はなく(『寛政譜』新訂13巻185頁按文。また家督は実子の政長が継いでいる)「貞享書上」[1]において清長の養子として訂正され(同前)、以降『藩翰譜』『寛政譜』はこれに従っている。

生涯

弘治3年(1557年)に13歳で松平元信(徳川家康)に会見、一字を与えられて「信成」となり、その側近となった。永禄元年(1558年)三河広瀬城攻略に清長と共に従軍し、また三河一向一揆平定の後、その軍功により三河中島に600石の采地を与えられた[2]元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い殿軍を務めた他、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、その功績を織田信長から賞賛されたと『寛政譜』に記述がある。

その後も高天神城の戦い小牧・長久手の戦いにて活躍。天正17年(1589年)6,000石を加増されて甲斐常光寺城の城主となる。天正18年(1590年小田原征伐に参陣した際、豊臣秀吉がその「武備を感じ」(『寛政譜』)目通りを許したという。家康の関東入国の後に伊豆国1万石を与えられて韮山城の城主となった。

晩年

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、駿河沼津の三枚橋城を守備。慶長6年(1601年)に駿府城を与えられ、駿河において4万石の領主となる。同8年(1603年)に従五位下豊前守に任ぜられた。慶長11年(1606年)、采地を改められて近江国4万石を領し、長浜城を居所とした。

慶長17年7月24日、長浜城において68歳で病没(前掲「内藤家譜」)。法名は法善院殿陽竹宗賢大居士とされている(同前)。

出典

  • 『寛永諸家系図伝』8巻 続群書類従完成会、1985年
  • 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年
  • 内閣文庫影印叢刊『譜牒余録』中巻 国立公文書館内閣文庫、1974年
  • 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
  • 内閣文庫史籍叢刊 特刊1『朝野旧聞藁』1巻 汲古書院、1982年
  • 国立公文書館所蔵「内藤家譜」(請求番号:157-0205)
  • 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。

脚注 

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先代:
内藤清長
内藤家 (信成系)初代当主
1564年 - 1612年
次代:
内藤信正

テンプレート:駿府藩主

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  1. 一例として、国立公文書館内閣文庫刊行本『譜牒余録』中巻414頁所載「内藤家伝」。清長の姉婿・島田久右衛門の次男を養子として迎えたのが信成としている。
  2. 明治以降に成立した「越後村上 内藤家譜」(東大史料編纂所所蔵)では永禄5年(1562年)と記しているが、享保4年(1719年)の記事を下限とする国立公文書館所蔵「内藤家譜」は永禄8年(1565年)とし、また「寛政譜」では同8年の三河上野城攻めの後のこととしている。