信貴生駒電鉄
信貴生駒電鉄(しぎいこまでんてつ)は、現在の近畿日本鉄道(近鉄)生駒線と、京阪電気鉄道交野線を建設した鉄道事業者である。
経緯
信貴生駒電気鉄道として鉄道線(現、近鉄生駒線)と鋼索線(1983年(昭和58年)に廃止された近鉄東信貴鋼索線となる)を建設し、関西本線・大阪電気軌道(近畿日本鉄道の直系母体会社)奈良線の沿線から信貴山朝護孫子寺への参詣客を運ぶことを目論んで1919年(大正8年)9月17日に創立され、1922年(大正11年)に鉄道線の一部区間と鋼索線を開業させた。
その後、信貴生駒電気鉄道は資金調達がはかどらず経営難に陥ったため、1925年(大正14年)11月5日に当時三重県にあった電力会社である三重合同電気の傘下で新会社信貴生駒電鉄を創立し、信貴生駒電気鉄道は全財産を信貴生駒電鉄に譲渡して解散した。この新体制の下で、1926年(昭和元年)に生駒 - 王寺間を全通させている。
さらに京都方面より信貴山への参詣客を運ぶことを目論み、現在の京阪交野線に当たる区間の免許を収得していたものの資金不足から着工できなかった生駒電気鉄道を信貴生駒電鉄創立前の1924年(大正13年)7月1日に買収し、1929年(昭和4年)には私市 - 枚方東口(現、枚方市)間を開業させ、私市 - 生駒間を後に建設することにしていた。同社では他に、王寺 - 五条間や交野 - 八幡間などの路線を建設する計画も立てていた。
だが昭和恐慌による乗客の減少と、大阪電気軌道及びその子会社の信貴山電鉄によって現在の信貴線・西信貴鋼索線などが開通し、大阪方面からの信貴山参拝客が主にこちらを利用するようになったことから苦境に陥り、私市 - 枚方東口間の経営を1931年(昭和6年)8月1日には京阪電気鉄道に委託し、自社は大阪電気軌道の系列に入って存続を図ることにした。1939年(昭和14年)に京阪が全額出資する新会社交野電気鉄道を設立し、同年5月1日、私市 - 枚方東口間を同社に譲渡している(同社は1945年(昭和20年)に京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)へ合併され、1949年(昭和24年)に阪急から京阪が分離したことで京阪の所有路線となった)。
戦後、現在の近鉄田原本線を運営していた大和鉄道を1961年(昭和36年)10月1日に合併するが、その3年後の1964年(昭和39年)10月1日に近鉄に吸収合併され、信貴生駒電鉄の名は消滅した。
なお、路線ごとの詳しい沿革は各路線記事を参照のこと。
- 1919年(大正8年)
- 8月27日 - 信貴鉄道に対し鉄道免許状下付(北葛城郡王寺村-生駒郡北生駒村、生駒郡三郷村大字勢野-信貴山間)[1]。
- 9月17日 - 発起人会において信貴生駒電気鉄道への名称変更を決議。
- 12月7日 - 信貴生駒電気鉄道設立。
- 1922年(大正11年)5月16日 - 王寺-山下、山下-信貴山間(鋼索線)開業[2]。
- 1924年(大正13年)7月1日 - 生駒電気鉄道(生駒村-枚方間未開業)を合併[3]。
- 1925年(大正14年)10月8日 - 信貴生駒電鉄への鉄道譲渡許可[4]。
- 1926年(大正15年)10月21日 - 山下-元山上口間開業[5]。
- 1926年(昭和元年)12月28日 - 元山上口-仮新生駒間開業[6]
- 1927年(昭和2年)4月1日 - 仮新生駒駅廃止。菜畑-生駒間開業[7]。
- 1928年(昭和3年)7月3日 - 鉄道免許状下付(北河内郡交野村-同郡星田村間)[8]
- 1929年(昭和4年)7月10日 - 私市-枚方東口間開業[9]。
- 1936年(昭和11年)1月22日 - 鉄道起業廃止許可(北河内郡交野村-同郡星田村間)[10]。
- 1939年(昭和14年)3月17日 - 交野電気鉄道に対し譲渡許可(北河内郡枚方町-同郡磐船村間鉄道、同郡磐船村-生駒郡生駒町間鉄道敷設権)[11]。
輸送・収支実績
年度 | 輸送人員(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1922 | 409,950 | 454 | 99,849 | 69,354 | 30,495 | ||||
1923 | 651,257 | 1,131 | 157,133 | 100,187 | 56,946 | 償却金370 | 8,646 | ||
1924 | 649,351 | 1,005 | 155,186 | 88,075 | 67,111 | 償却金3,057 | 7,733 | ||
1925 | 575,014 | 589 | 134,549 | 86,611 | 47,938 | 償却金2,180 | 5,730 | ||
1926 | 687,878 | 693 | 163,458 | 73,965 | 89,493 | 償却金3,000 | 4,563 | ||
1927 | 997,758 | 708 | 223,269 | 159,739 | 63,530 | 46,265 | |||
1928 | 1,053,180 | 829 | 258,063 | 155,046 | 103,017 | 99,487 | |||
1929 | 1,178,023 | 1,622 | 264,535 | 157,612 | 106,923 | 償却金10,000 | 105,953 | ||
1930 | 1,234,403 | 2,699 | 253,994 | 222,733 | 31,261 | 土地売却差益金8,058 | 償却金3,813 | 135,708 | |
1931 | 1,061,445 | 2,165 | 171,001 | 156,253 | 14,748 | 雑損12,549 | 140,876 | ||
1932 | 1,081,988 | 1,622 | 164,018 | 126,269 | 37,749 | 雑損9,060 | 115,462 | ||
1933 | 1,006,912 | 1,462 | 147,229 | 120,388 | 26,841 | 土地家屋27 | 114,274 | ||
1934 | 1,103,176 | 1,401 | 157,073 | 108,180 | 48,893 | 雑損360,094 | 117,151 | ||
1935 | 1,115,357 | 900 | 154,518 | 129,643 | 24,875 | 雑損償却金56,295 | 65,096 | ||
1936 | 257,918 | 218 | 49,590 | 21,039 | 28,551 | 雑損41,013 | 9,416 | 鋼索線 | |
1,139,054 | 352 | 101,730 | 103,066 | ▲ 1,336 | 49,437 | 平坦線 | |||
1937 | 26,107 | 151 | 159,752 | 140,869 | 18,883 | 雑損10,325償却金88,381 | 42,690 | 鋼索線 | |
1,014,478 | 393 | 平坦線 | |||||||
1945 | 350,622 | 545 | 鋼索線 | ||||||
2,295,121 | 896 | 平坦線 |
- 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両
- 100形デハ101 - 103
- 1921年10月に大阪の日本電気車輌今宮工場で製造された[12]木造車。機器に不具合があり、実働4年で1形に代替されて休車、その後1933年6月16日に「古朽のため」廃車となった。
- 1形デハ1 - 4
- 1926年の信貴山下 - 生駒間開業に備えて藤永田造船所(1.2)田中車輌(3.4)で製造された半鋼製電車。信貴生駒電鉄が近鉄に吸収合併される際、同社に承継されず廃車となった。3は無車籍のまま八戸ノ里駅にあった玉川工場へ最後は五位堂工場の構内入換車として1990年(平成2年)[13]まで使われた。
- 11形モ11
- 書類上は1950年近畿日本鉄道高安工機部製造となっているが、実態は1918年(大正7年)に製造された近鉄モ52(旧大阪電気軌道デボ52)が前年にモ600形に鋼体化された際に余った旧車体を譲り受けたもの。1958年10月廃車。
- 51形デハ51 - 53
- 1921年(大正10年)に製造された北大阪電気鉄道の1形が、同社の新京阪鉄道への合併後、P-4形の投入によって余剰となったことから、これを1926年(大正15年)8月15日付けで譲り受けたもの。バッフアー及び螺旋式連結器を装備していた[14]。1950年代まで使用された。
- 1・2
- 鋼索線の車両。元々は 1921年10月に日本電気車輌今宮工場で製造されたとされる[12]2両の木造車が使用されていたが、これと代替すべく1933年(昭和8年)藤永田造船所で製造されたテオドル・ベル式の半鋼製車。藤永田造船所の社長が信貴山の信者であり採算を度外視して製作したという[15]。また当初車体色は信貴山の虎にちなみ黒と黄色の縞模様だった[16]。合併後は近鉄に承継され、コ9形9・10となり、東信貴鋼索線が廃止されるまで使用された。
枚方線では自社保有車両を使用せず、京阪から車両を借り入れて使用した。開業当初は100形3両を使用したが、1933年(昭和8年)に京津線の20形3両を改造して900形(901 - 903)として充当した。その後1938年(昭和13年)に100形に再度置き換えられている。
生駒 - 王寺間では1950年代以降、近鉄から200形を借り入れて使用していた。
脚注
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1919年8月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年5月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正13年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「鉄道譲渡」『官報』1925年10月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年10月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年1月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年4月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1928年7月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道起業廃止」『官報』1936年1月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道並鉄道敷設権譲渡」『官報』1939年3月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 12.0 12.1 実際は大正9年の恐慌により工場が閉鎖されたためその設備を使用して自社で制作した。吉川文夫「信貴生駒電鉄開業時の車両101形を探る」『鉄道ピクトリアル』No.727 2003年1月臨時増刊号、226頁
- ↑ 山崎寛「信貴生駒電鉄デハ1形の生涯」『関西の鉄道』No.33、1996年、88-89頁
- ↑ 竹内竜三・天塚忠良「信貴生駒電鉄」『鉄道ピクトリアル』No.95 1959年10月号、45-46頁
- ↑ 野村董 ・吉川寛「近畿日本鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.226 1969年7月号、74頁
- ↑ 1321生「信貴生駒電鉄」『鉄道模型趣味』No.79 1955年3月号、125頁
参考文献
- 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』349-351頁