世宗 (朝鮮王)
テンプレート:Redirect テンプレート:未検証 テンプレート:基礎情報 朝鮮半島の君主 テンプレート:朝鮮の人物 世宗(セジョン、せいそう、洪武30年4月10日(1397年5月7日) - 景泰元年4月8日(1450年5月18日))は、李氏朝鮮の第4代国王である。姓は李(イ、り)、名は祹(ド、とう、文字は示へんに陶の旁)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれた。
ハングル(訓民正音)の制定を行ったことで知られ、儒教の理想とする王道政治を展開したことで、後年「海東の堯舜」と称された。このため廟号は世宗であるが、朝鮮では李朝一の名君という意味で世宗大王(세종대왕、セジョンデワン、せいそうだいおう)とも言われる。
田制改革などの内政・文化の改革で大きな成果があり、女真族を征伐して国威を高めた一方で、仏教の統制・弾圧、朝鮮朱子学への極端な傾倒の端緒となるなど負の側面もあった。
目次
生涯
即位
1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム、ちん)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。
健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。
世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。
内政
世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、集賢殿の鄭麟趾(チョン・インジ、てい りんし)らに命じて創製したハングル(訓民正音)が知られている。
1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して朝鮮の田税制度を定めた。
1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。
対外関係
日本との関係に関しては、当時朝鮮の沿岸を荒らし回っていた倭寇の取り締まり問題での対立が引き金となって、即位翌年の1419年に対馬を攻撃した(この外征は当時まだ上王として実権を握っていた太宗の意向が反映していたものであった)。その後、外交的解決に重きを置くようになり、世宗在位中には1428年・1439年・1443年に通信使が派遣されて、室町幕府との修好がなされ、倭寇禁圧の要請が行われた。通信使は日本の国情偵察も兼ねており、使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』としてまとめられた。1438年(永享10年)ころには文引制を採用し、1443年(嘉吉3年)には日本側の事実上の出先機関となった対馬の宗氏との間に嘉吉条約を結んだ。
北方では建州女真に対する戦争を行い、豆満江以北に女真族を追いやって、四郡と六鎮を設置、後に平安道や咸鏡道として朝鮮の領土に組み込んだ。また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行った。
文化と技術
仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(韓国の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。
また、次のような実学や技術が発展したとされている。
- 1432年に王立天文台である簡儀台を設置し、渾天儀など多くの天体観測器を製作させた。また、時間を測定する日時計(仰釜日晷など)と自動水時計(世界初のからくり時計であると現代の韓国でされている自撃漏など)も製作させた。
- 1441年に元官奴で正四品になった蒋英実が発明した「測雨器」は世界最初の雨量計であると現代韓国でいわれ、農業気象学に資した。また、農業技術の改良と勧奨のために『本国経験方』『農事直説』などの農書を編纂させた。
- 世宗代には活字・印刷技術も発展を遂げた。1403年に発明されたと現代韓国で言われている青銅活字「癸未字」の欠点を補完するため、新しい青銅活字である「庚子字」(1420年)、「甲寅字」(1434年)を開発させた。
- 1444年に設置された「火砲鋳造所」では崔海山(チェ・へサン、さい かいざん)により火薬や火器の製造・開発がおこなわれ、火砲の鋳造法と火薬使用法、規格を図示した『銃筒謄録』が刊行された。
- 世宗は朴堧に楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などを命じた。これにより朝鮮の雅楽の復興期が到来した、と現代韓国ではされている。
このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。
その死と陵墓
晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で薨去した。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。
逸話
- 世宗は幼い頃から性格が善良で、学問を好んだという。兄・譲寧大君の問題行動は、父が世宗に譲位したいのではないかと察して、わざと起こしたものとも言い伝えられている。
- 夜明けから正午まで読書をしたため、健康を害するとの理由で両親は世宗の居所からすべての書籍を撤去させたが、世宗は偶然に屏風の後ろにあった書籍1冊を見つけて、100回以上繰り返し読んだという逸話は韓国で有名である。また好学を伝えるものとして、書籍を繰り返し読んだため表紙が破れ、たびたび縫わなければならなかった。食事の際にも書籍を読んでいた。という逸話もある。
宗室
后妃
- 宣仁斉聖昭憲王后・青松沈(シム、ちん)氏
- 令嬪姜氏
- 慎嬪(シンビン、しんひん) 金(キム、きん)氏 - 桂陽君の母。
- 恵嬪(へビン、けいひん) 楊(ヤン、よう)氏 - 世子嬪(顕徳王后)の死後、敬恵公主と端宗を任された。
- 貴人 朴氏
- 貴人 崔氏
- 淑儀 趙氏
- 昭容 洪氏
- 淑媛 李氏
- 尚寢 宋氏
- 司記 車氏
王子
- 文宗 李珦 (1414年 - 1452年)
- 世祖(首陽大君李瑈) (1417年 - 1468年)
- 安平大君 李瑢 (1418年 - 1453年)
- 臨灜大君 テンプレート:仮リンク (1419年 - 1469年)
- 広平大君 李璵 (1425年 - 1444年)
- 錦城大君 李瑜 (1426年 - 1457年)
- 平原大君 李琳 (1427年 - 1445年)
- 永膺大君 李琰 (1434年 - 1467年)
- 和義君 李瓔
- 桂陽君 李璔 (1427年 - 1464年) - 韓確の娘(仁粋大妃の姉・清州韓氏)と結婚。
- 義昌君 李玒 (1428年 - 1460年)
- 漢南君 李玗
- 密城君 李琛 (1430年 - 1479年)
- 寿春君 李玹
- 翼峴君 李璭 (1431年 - 1463年)
- 永豊君 李瑔 (1434年 - 1456年)
- 寧海君 李瑭 (1435年 - 1477年)
- 潭陽君 李璖 (1439年 - 1450年)
王女
肖像など
- 世宗の肖像画は一切残っていない。現在一般に知られている肖像画は金基昶(1914年 - 2001年)が空想で描いたもので、この絵は1973年に国家標準肖像画に指定された。大韓民国の1万ウォン紙幣にもこの肖像画が採用されている。2005年8月29日に発表された『親日人名辞典』予備リストに金基昶の名前が掲載されたことから、ハングル学会と世宗大王記念事業会などで構成されたハングル団体連合は国家標準肖像画の差し替えを要求した。[1]
- ソウル特別市の汝矣島、徳寿宮、光化門に銅像がある。
世宗にちなむ命名
韓国では国家的プロジェクトや文化・科学技術関係の施設・事業に世宗の名が使われることがある。
- 世宗特別自治市
- 世宗大王 (駆逐艦) - 韓国海軍初のイージス艦。世宗大王級駆逐艦1番艦
- 世宗基地 - 韓国の南極観測基地
- 「世宗コーパス」あるいは「21世紀世宗計画」 - 朝鮮語のコーパス
- 世宗文化会館
- 世宗研究所
- 世宗大学校
- 世宗 (小惑星) - 発見者は日本人天文家。
- 世宗路 - ソウル市内の主要道路の一つ。
- 世宗 - 国際テコンドー連盟のテコンドーの型。
- ユネスコ世宗識字賞
脚注
世宗が登場する作品
- 映画
- テレビドラマ
- 龍の涙 - 1996-1998年。高麗から李氏朝鮮への移り変わりを中心に描いた韓国の時代劇ドラマ。演:アン・ジェモ。
- 大王世宗 - 2008年。世宗を主人公とした韓国の時代劇ドラマ。演:キム・サンギョン。
- 根の深い木 - 2011年。演:ハン・ソッキュ。