三菱・スタリオン
スタリオン(Starion )は、三菱自動車工業が1982年から1990年まで生産していたフロントエンジン・リアドライブ方式の2ドアクーペである。
目次
概要
1982年、発表。独自のスタイルを持つスペシャリティーカーとして名を馳せたギャランΛ/エテルナΛの後継車種にあたる。キャッチコピーは『ヘラクレスの愛馬、アリオンが今、星になって帰ってきた』。
角張ったボディデザインはアメリカ市場を意識したものであるが、ランサーセレステを開発した二村正孝の著書[1]によると、セレステの後継車として計画されていた「セレステII」のプロトデザインがスタリオンのデザインに直接的な影響を与えたとされている。「セレステII」のプロトデザインはノッチバックであり、後に自動車雑誌のインタビューに登場した当時の三菱の技術者達もギャランΛ/エテルナΛと同じノッチバックデザインのスタリオンを登場させたい意向があったと語っているが、実際に市場に投入されたのはハッチバックのみであった。
当初はG63B型直列4気筒SOHC2バルブ、サイレントシャフト付き2,000ccECIターボ(タービンは三菱TC05-12Aを採用)、同キャブレター式自然吸気エンジンの2本立てでスタートした(グレードは下記を参照)。Λ同様、ギャランΣ/エテルナΣのフロアパンを流用しているため、フロントに縦置きされたエンジンで後輪を駆動するFR車である。販売開始当初はΣの後輪車軸をそのまま使用した車軸懸架の車体と、後輪にマクファーソンストラットを使用した独立懸架の車体が並存したが、間もなく独立懸架の車体のみに統一された。
北米市場での競合車種はポルシェ・924ターボが想定され、発売当初、自動車専門誌にサーキットでの924ターボとの比較テストの模様を掲載する広報活動も行われた。ステアリングは当時としては保守的な機構であったボール・ナット方式のパワーステアリングが採用され、欧米の自動車メディアはターボエンジンの高出力とボール・ナットながらもクイックなレシオのステアリングを評価した反面、ボール・ナット特有のステアリングフィールの鈍さを辛辣に評価する向きも目立った。
後に、日本車の市販車で初の空冷式インタークーラーターボを装備するモデル、可変バルブ機構式3バルブエンジン+インタークーラーターボのG63BシリウスDASH3×2エンジンを積んだ2000GSR-V、3ナンバーサイズとなるブリスターフェンダーを採用した2000GSR-VR、そのボディにギャランΛ/エテルナΛや初代デボネアに搭載されていたサイレントシャフト付き2,600ccのG54B型にインタークーラーターボを装着した2バルブエンジン(シリウスDASH3×2ではない)を積む2600GSR-VRが加わった。
コルディアに引き続き、発売当初のカタログやポスターには長岡秀星によるイラストレーションが多用され、長岡による馬頭をあしらったスタリオンマークがデザインされた。
アメリカ市場を意識していたため、低~中回転域を重視したトルク重視のエンジンセッティングとなっているのが特徴で、2,600ccエンジンの最高出力は175psであったが、最大トルクは32.0kg-mを発揮していた。クライスラーにもOEM供給され、ダッジとプリムスからコンクエスト(Conquest )の名称で販売されていた。
歴史
- 1982年5月 - 生産開始。当初のグレードはGX、GSR-I、GSR-II、GSR-III、GSR-Xの5種類。
- 1983年 - 同年公開の映画「キャノンボール2」にてジャッキー・チェンとリチャード・キール組のマシンとして起用された。インタークーラー装着車(グロス175ps)追加。GXは廃止。
- 1984年 - シリウスDASH3×2(グロス200ps)を積んだ「GSR-V」を追加。
- 1987年 - 2,000ccエンジン車にワイドフェンダーを組み合わせた特別限定車「GSR-VR」を発売。(販売台数50台)
- 1988年 - 2,600ccエンジンを搭載した「2.6 GSR-VR」のモノグレードに統合。
- 1989年 - テレビ朝日のドラマ・「ゴリラ・警視庁捜査第8班」(石原プロモーション制作)にて、ガルウィングドアに改造されたスタリオンが使われ、後に5台限定販売された。
- 1990年 - 生産終了。後継車はGTO。
各モデル一覧
- GX - (1982年-1983年、A182A、2,000ccNA、4リンクリジットサス)- ごく短期間のみの製造。燃料装置はキャブレターのためボンネットは1985年以降のターボ車と同じくフラットタイプである。現存数は極めて少ない。
- X - (1982年、A182A、2000ccNA、4リンクリジットサス)- 車軸懸架グレードの廉価版として計画されたもの。試作のみで市販はされていない。
- GSR-I - (1982年-1983年、A183A、2,000ccターボ、4輪独立懸架)- ターボグレードの中での廉価版。TC-05タービン、ECI電子制御燃料噴射を装備。パワーステアリングなし。
- GSR-II - (1982年-1987年、A183A、2,000ccターボ、4輪独立懸架)- ベースモデル。パワーステアリング、電動式ウインドウを装備。84年式から国産車で初めて空冷式インタークーラーを装備した。
- GSR-III - (1982年-1987年、A183A、2,000ccターボ、4輪独立懸架)- 改良されたオーディオシステム、デジタルパネル、オートエアコン。84年式からインタークーラーを装備した。
- GSR-X - (1982年-1983年、A183A、2,000ccターボ、4輪独立懸架)- レザーシート、クルーズコントロール、コンピュータ式走行距離表示・燃費計算、 標準装備。
- GSR-V - (1984年-1987年、A183A、2,000ccシリウスDASH3×2ターボ、4輪独立懸架)- シリウスDASH3×2エンジンを搭載。
- GSR-VR - (1987年、A184A、2,000ccシリウスDASH3×2ターボ、ワイドボディ、50台限定販売)- 1986年より輸出向けに製造されていたワイドボディにシリウスDASHエンジンを搭載。タイヤは前後215/60R15を装着。装着されたメッシュホイールはエンケイ製で、前6.5J オフセット+18 後7J オフセット0[2]。
- GSR-VR - (1988年-1990年、A187A、2,600ccターボ、ワイドボディ)- 2,600ccエンジンと1速にダブルコーンシンクロを採用した改良型KM132トランスミッションを搭載。ATはOD付4ATのJM600ミッションを搭載。ステアリングコントローラ付きオーディオ、クルーズコントロール、最終減速比が変更されたデフと機械式LSD、オートエアコンを標準装備。オプションにレザーシート及び8段可変式ショックアブソーバー。タイヤは前205/55R16、後225/50R16を装備、国内初の50タイヤ標準装着車となった。
輸出モデル
北アメリカ
北米には1983年から1989年まで輸出された。当初はナローボディにG54Bターボエンジンを搭載したLS/ES/ESI/LEが販売され、1986年からは国内の1988年式GSR-VRに相当するG54Bターボエンジン、ワイドボディのESI-Rが追加された。国内仕様とはシートベルトの仕様が異なり電動式のオートシートベルトとなっている他、テールランプもウインカーと連動するタイプのものが装備されている。最上級グレードのESI-Rには特別仕様として、国内仕様ではオプションであった8段可変ショックに加え、ホイールも国内仕様と同デザインながらも前後1サイズずつ拡幅[3]された物を標準装備した「ESI-R スポーツハンドリングパッケージ(SHP)」が存在した。
同時期にクライスラーに供給された車体は1984年-1986年まではダッジ/プリムス・コンクエスト、1987年以降はクライスラー・コンクエストとして販売、グレードはワイドボディのTSiと、ナローボディ・インタークーラーなしの廉価グレードTechnicaが存在した。
ヨーロッパ
ヨーロッパ仕様は主に2,000ccのG63Bエンジンで展開され、ボディスタイルはナローボディであった。標準モデルのスタリオンターボの他に、GSR-Xに似たラグジュアリーバージョンのEX、インタークーラー搭載のハイエンドモデルのEX2というグレードが存在したが、いずれも国内仕様のTC05-12Aタービンよりも大型化されたTC06-11Aを装備している事が特徴である。ヨーロッパ仕様は旧EC圏のヘッドライト常時点灯規則に対応するため、国内仕様では35Wであったフォグランプが、65Wのドライビングランプに変更されている他、テールランプにはリアフォグランプも内蔵されていた。
イギリスでは1987年からG54B/TC05-12Aのワイドボディ車が販売された。当初のモデルは有鉛ガソリン、触媒なしとして販売されていたが、最終的には改正されたイギリスの国内法制に従い、無鉛ガソリン化と三元触媒装備となり、155psという出力に落ち着いている[4]。
オーストラリア
オーストラリアでヨーロッパ仕様に準じたナローボディ右ハンドル車が販売された。エンジンは2,000ccのG63B(豪州では4G63と表記)で、組み合わされるターボチャージャーは1982年から1985年まではTC06-11A、1985年から1987年まではTC05-12Aという構成であった。
備考
スピードメーターは北米、ヨーロッパ仕様ともに国内仕様の180km/hメーターに代わり、一般輸出仕様260km/hメーター、ヨーロッパ仕様240km/hメーター、1988年製英国仕様160MPHメーター、米国/英国仕様150MPHメーター、1982年製米国仕様85MPHメーターが採用されている。
スタリオンは特にアメリカにおいて人気があり、StarionとConquestを掛け合わせた造語である「StarQuest」という別名が付いている他、現在でも2.6L車向けの豊富なアフターパーツが販売され続けている。
モータースポーツでの活躍
1980年代のモータースポーツでは三菱を代表するレーシングベース車両として、国際格式の幾つものカテゴリーに参戦していた。特にサーキットにおけるグループAとグループNカテゴリーでの活躍が顕著である。Simmons drumsにスポンサードされたスタリオンを駆るアンディ・マクレナンは多くのレースで勝利を収めた。アメリカではスタリオンは耐久レースでの活躍で知名度を得た。2,600ccG54Bターボエンジンはロータスエンジンのチューニングで著名であったDave Vegherの手によりチューンされ、デーヴ・ウォーリンの率いるチーム・三菱のスタリオンは1984年から1987年までの"Longest Day of Nelson Ledges"24時間耐久レースを制した。また、チーム・三菱のスタリオンはその4年間en:Sports Car Club of America(SCCA)の米国選手権で多くの勝利を収めている。なお、当時のアメリカのモータースポーツシーンはクライスラー、アウディ、日産およびマツダのワークスチームが参戦していたが、ウォーリンのチームは三菱のフルワークス体制ではなく、飽くまでもセミワークス体制で勝利を収めていたことが特に高く評価されている。 現代のモータースポーツではすでに現役を退いて久しいが、アメリカでは多くのサーキット走行イベントでプライベーターの手によるスタリオンが走り続けているという。
日本においては全日本ツーリングカー選手権にて、中谷明彦/高橋国光組のドライビングによる活躍が広く知られている。特に1985年のインターTECにおいて、中谷のドライブするスタリオンがボルボ・240ターボ勢に国産勢で唯一互角以上の戦いを見せたエピソードや、翌1986年の富士インターTECにおいてもその年の欧州選手権を制したジャガー・XJSを一時逆転し、名門トム・ウォーキンショー・レーシングを慌てさせたエピソードなどは現在でも当時のJTCを振り返る際の語り草となっている。
主なサーキットでのリザルト
国際選手権及び北米選手権
- 1984年 - Australian Production Car Champion
- 1984年 - SCCA Nelson Ledges 24 Hour Race 1st
- 1984年 - SCCA Playboy Endurance Championship 1st
- 1984年 - Silverstone Finale 1st
- 1985年 - British Saloon Car Championship 2nd in championship
- 1985年 - Guia Race in Macau Grand Prix 3rd
- 1985年 - Guia Race in Macau Grand Prix 4th
- 1985年 - SCCA Nelson Ledges 24 Hour Race 1st, Despite heavy rollover crash damage.
- 1985年 - SCCA Playboy Endurance Championship 1st
- 1986年 - SCCA Escort Endurance Championship 2nd
- 1986年 - SCCA Nelson Ledges 24 Hour Race 1st
- 1986年 - SCCA Showroom Stock A National Championship 1st
- 1986年 - Dutch National Touring Car Championship 1st
- 1987年 - SCCA Escort Endurance Championship 1st
- 1987年 - SCCA Nelson Ledges 24 Hour Race 1st
- 1988年 - SCCA Showroom Stock A National Championship 1st
- 1990年 - SCCA Showroom Stock A National Championship 1st
日本選手権
- 1985年 - インターTEC (全日本ツーリングカー選手権 (JTC)) 総合4位
- 1986年 - SUGO グループA 300kmレース (JTC) 総合3位
- 1986年 - レース・ド・ニッポンin筑波 (JTC) 総合優勝
- 1986年 - 鈴鹿300kmレース (JTC) 総合2位
- 1986年 - 全日本ツーリングカー選手権 総合2位
- 1987年 - 全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 総合優勝
- 1987年 - ハイランド・ツーリングカー300kmレース (JTC) 総合優勝
- 1987年 - 全日本ツーリングカー選手権 シリーズ3位
- 1988年 - ハイランド・ツーリングカー300kmレース (JTC) 総合2位
スタリオン4WDラリー
1983年10月、東京モーターショーにてスタリオン4WDラリーが展示された。当時グループB規定車両で競われていたWRCに、翌年からの参戦とホモロゲーション用車両の市販を視野に入れたこのマシンは、最高出力360ps、最大トルク32.0kg-mを発生するSOHC2,091cc・インタークーラーターボ付きシリウスDASH3×2エンジンを搭載し、ビスカスカップリング式4WDを介して路面に伝える、開発中のラリー競技専用車両だった。
スタリオン4WDラリーはフロントのオーバーハングが切り詰められ、丸型ヘッドランプと大型フォグランプを装着[5]。FRP製のボンネットフードにはエアインテークが設けられていた。フロント・リアともにオーバーフェンダーを装着。リアスポイラーに内蔵されたオイルクーラーなどが外観上の特徴だった。
実際の開発マシンには、ランサーEX2000ターボに搭載されていた2バルブのG63Bをベースに2,140ccまで排気量をアップし、更なるチューニングが施されたG63B'が搭載されていた。1983年2月に試作1号車のT1が、4月に2号車のT2が完成し精力的なテストが行われ、比較実験で仮想敵とされた当時のWRC最強マシンアウディ・クワトロを上回るコーナーリングスピードをマークするなどポテンシャルの一角を見せた。マシンの開発ドライバーは、のちのグループAランサーでトミ・マキネンの活躍を支えたラッセ・ランピだった。
1984年市販車生産計画中止が決定するも、その後も各種ラリーのプロトタイプクラス出場と将来の後継車のための技術開発のため開発は続行され、同年8月のミルピステ・ラリーのホモロゲーションなしでも参戦できるエクスペリメンタルクラスに出場し、クラス優勝を飾った。11月のRACラリーには特別枠のプロトタイプクラスに参戦し、完走した。
1985年はマレーシア・ラリーのプロトタイプクラスに出場。1986年と1987年には香港-北京ラリーにイエローの555カラーを纏ったスタリオン4WDラリーが参戦したが、いずれもマシントラブルでリタイアしている。
総生産台数は5台。前述のT1/T2に加えS1/S2の4台と、市販車のために揃えられた各種部品は廃棄されたと言われているが、岡崎工場に市販車仕様のレプリカが1台展示されている。現存数は3台(日本に2台、英国に東京モーターショー仕様が1台)。スタリオン4WDラリーで培われたハイスピード4WDマシンの技術は、後に登場するギャランVR-4やGTO、ランサーエボリューションに活かされた。
ちなみに市販車仕様はラリー会場などに展示されてあることもある。また、映画『SS エスエス』にも工場に置いてあるものとして登場し、このことから2008年度の東京オートサロンに展示されたことがある。
なおこの岡崎工場仕様とは別にオーナーにより市販版のスタリオンを4WDラリーの外観にしているものも存在[6]する。
ラリーでの主要リザルト
スタリオン ターボ Gr.A (1987年-1988年)
- Gr.B規定でのスタリオン4WD開発当時から三菱・ランサーEXの後継機としてプライベーターの手で各地のラリーに参加していたGr.Aスタリオンであるが、1986年にGr.B規定が消滅して以降、1987年より三菱はスタリオンGr.A仕様で三菱・ランサーEX以来4年ぶりにワークス参戦を再開。1989年に三菱・ギャランが登場するまで各地のラリーを転戦した。[2]
- 1986年 - 1000湖ラリー(WRC)
- 1987年 - カタール・ラリー(中東選手権) 総合3位
- 1987年 - クウェート・ラリー(中東選手権) 総合3位
- 1987年 - コートジボアール・ラリー(WRC) 総合4位
- 1987年 - ヒマラヤ・ラリー 総合優勝
- 1987年 - オマーン・ラリー(中東選手権) 総合3位
- 1988年 - スコティッシュ・ラリー(英国選手権) 総合4位
- 1988年 - ニュージーランド・ラリー(APRC) 総合4位
- 1989年 - Bandama Rallye(WRC) 総合2位
スタリオン4WDラリー (1984年–1986年)
- 1983年 - パリ・ダカールラリー 1st in Experimental Class
- 1984年 - ミルピステ・ラリー (French Rally Championship) 1st in Prototype Category
- 1985年 - マレーシア・ラリー Prototype Category
- 1986年 - 香港-北京・ラリー 2nd
- 1987年 - カタール・ラリー (Middle East Rally Rally Cote d'Ivoire (World Rally Championship) 4th
- 1987年 - ヒマラヤ・ラリー 1st
- 1987年 - オマーン・ラリー (Middle East Rally Championship) 3rd
- 1988年 - スコティッシュ・ラリー (British Rally Championship)
- 1988年 - 英国オープンラリー選手権 1st (Pentti Airikkala/Terry Harryman)
車名の由来
車名の由来は「スター(星)」と「アリオン(ギリシャ神話ヘラクレスの愛馬の名)」を組み合わせた造語。一部で、種牡馬(スタリオン)の意味と誤解されているが、種牡馬の英訳は「Stallion」である。(これに関し、日本人はLとRの区別がつかないことからスペルミスではないかと物議を醸したことがある[7]。)
スタリオンGTO
1988年に北米仕様に準じた2,600ccワイドボディモデルが投入された際、当初グレードネームは1987年の2,000ccワイドボディモデルに使用されたGSR-VRではなく、ギャランGTO以来の車名復活となるGTOが用いられる予定であり、A187Aの型式認定の際には実際にSTARION GTOのステッカーが貼付された車体が用いられた。しかし販売店側からの反対により、GTOのグレードネームの使用を断念したという経緯があった。このGTOステッカーが貼付された車体のうち一部はそのまま市販されている[8]。
脚注
- ↑ 二村正孝(2004). 二村正孝とセレステ [CAR DESIGN BOOKS 1]:エリプスガイド. ISBN 978-4902173017.
- ↑ 1987年当時、輸出用ワイドボディ車には前7J 後8Jの16インチホイールが標準装備されていたが、国内では16インチ/50タイヤ/前後異幅タイヤ装着が認可されていなかったため、同幅15インチタイヤとなった。
- ↑ 国内仕様は前7J/後8Jに対し、ESI-R SHPは前8J後/9Jを装着。タイヤは前225/50R16、後245/45R16という幅広サイズであった。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ フォグランプを除いて037ラリーと似ている。なお給油口の動きからベース車両は5ナンバーと思われる。
- ↑ ちなみにスタリオン4WDラリーの大きさのスペックは市販車(5ナンバー)のものが使われているが、ブリスターフェンダーなので本当は3ナンバーであり、現に詳細に採寸して製作された市販車改バージョンのスタリオン4WDラリーはナンバープレートが3ナンバーになっている。この車両は『SS エスエス』に於いて走行シーンで使用された。
- ↑ http://www.snopes.com/business/misxlate/starion.asp
- ↑ [1]