一式砲戦車

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一式砲戦車 ホニI (いっしきほうせんしゃ -)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍砲戦車自走砲対戦車自走砲)。

当初は一式七糎半自走砲として制式化されたが、そのあと一式砲戦車としても制式化されている。一式七糎半自走砲は砲兵、一式砲戦車は機甲兵向けの名称であり、どちらも名称以外はほぼ同じ仕様である。

開発

ホニIホニI車)は、1939年(昭和14年)12月から研究が開始された。1941年(昭和16年)5月に試製砲が完成し、6月には試作車も完成、運行試験が開始され10月に陸軍野戦砲兵学校で実用試験を実施、同年内に制式化された。

車体は九七式中戦車 チハ(チハ車)を、主砲には九〇式野砲口径75mm)の台車部分をはずしたものを搭載した。九〇式野砲は当時の野砲の中では比較的初速が速く、対戦車砲としても遜色のない性能であったため、のちの三式砲戦車 ホニIII(ホニIII車)・三式中戦車 チヌ(チヌ車)にも改修版の三式七糎半戦車砲II型が採用されている。本車への車載にあたり砲口制退器が廃止され、尾栓形状を小型化し後座長を短縮する改良がなされ、砲口補強リングが取り付けられている。後座長は車載にあたり原型の九〇式野砲から300mm短縮され680mmとなり、高低射界は-15度~+25度、方向射界は左右22度であった。車体前面に装備されていた九七式車載重機関銃は廃止されている。

対戦車戦闘も前提にあったため、自走砲でありながらも、防盾前面(既存25mm)に25mmおよび車体前面(既存25mm)に16mmの増加装甲を施し、最大50mmと数字上は九七式中戦車より厚い装甲を備えている。砲側面は12mmの装甲で囲い戦闘室を形成した。同時期各国の自走砲の例に漏れず、戦闘室の上部構造物はオープントップ式で上面と背面の装甲は無い。

本車の姉妹車輛として、主砲に敬榴弾砲である九一式十糎榴弾砲を装備する一式十糎自走砲 ホニII(ホニ II車)がある。

装甲貫徹能力

装甲貫徹能力の数値は射撃対象の装甲板や実施した年代など試験条件により異なるが、通常の一式徹甲弾徹甲榴弾相当)を使用した場合は射距離1,000m/約70mm、500m/約80mm、タングステン・クロム鋼弾の「特甲」を使用した場合は1,000m/約85mm、500m/約100mmであった[1]。一式徹甲弾は希少金属の配給上の問題により、クロム1%・モリブデン0.2%・他少量のニッケルを含有した高炭素鋼を使用したアメリカ陸軍の徹甲弾と異なり、炭素0.5~0.75%を含む鋼を搾出して成形・蛋形へ加工後に熱処理で硬化して炸薬を充填した物を用いていた。

また、1945年(昭和20年)8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料においては、鹵獲した九〇式野砲の装甲貫徹能力の数値は一式徹甲弾を使用し、衝撃角度90度で命中した場合は射距離1,500yd(約1371.6m)/2.4in(約61mm)、1,000yd(約914.4m)/2.8in(約71mm)、750yd(約685.8m)/3.0in(約76mm)、500yd(約457.2m)/3.3in(約84mm)、250yd(約228.6m)/2.4in(約89mm)となっている。[2]

実戦

1941年に制式化されたものの、生産能力不足から1943年(昭和18年)11月に量産が開始された。ホニIとホニIIと合わせて138輌(資料によって124輌、または55輌)が生産された。制作は日立製作所

野戦砲兵学校を基幹要員とし、本車6輌及びホニII6輌を装備して編成された独立自走砲大隊は、1944年(昭和19年)11月のフィリピンへの上陸時に輸送船が撃沈され装備のすべてと要員の過半を失い解隊された。しかしながら、戦車第2師団機動砲兵第2連隊も内1個中隊に本車4輌を装備しており、弾薬機材とも大半をフィリピンのルソン島へ揚陸することに成功した。のちにサラクサク峠の戦いに投入され(#フィリピン防衛戦)、この際にアメリカ軍鹵獲された車輌が現在もアバディーン実験場に展示されている。

他にビルマ戦線戦車第14連隊などでも使用されたが、いずれもごく少数である。また、中国大陸の戦車師団に少数が配備されたとも言われている。

フィリピン防衛戦

1945年(昭和20年)1月8日、アメリカ軍はフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸した。戦車第2師団の機動砲兵第2連隊に配備された4輌のホニIは、この上陸してきた米軍を迎撃した。

ウミガン、ルパオで迎撃に当たった本車は、あらかじめ各所に戦車壕を掘ってその中に待機、砲のみを出した上で敵を引きつけた。米軍は戦車を前面に配置したうえで歩兵とともに前進、これを日本軍は歩兵を主体として防戦したものの、戦力の差は激しく後退を強いられた。歩兵部隊は自走砲より後方へ下がることも多かった。ホニIは壕の中で待機し、十分に敵を引きつけたうえで連続射撃を開始した。突如として砲撃を受けた米軍にとり、本車の位置を特定して素早く反撃するのは難しく、この隙にホニIは次の壕へと素早く移動した。引きつける段階で位置が暴露されれば撃破はまぬがれないが、ノモンハン戦生き残りの優秀な部隊・幹部による遮蔽・擬装は完璧であった。米軍の装備していたM4中戦車に対しても待ち伏せ攻撃を加え、射距離500m程度から正面装甲を貫徹し撃破している。こうして機動砲兵第2連隊のホニI4輌は米軍の反撃を回避し、連日数百発の砲撃を加えて損害を与え戦闘を続けた。

機動砲兵第2連隊でホニIに搭乗していた朝井博一は、「この移動トーチカ作戦で、米軍戦車や兵員輸送の六輪トラックを数多く破壊し、多大の戦果をあげることができた。兵員輸送のトラックに榴弾が命中し、その瞬間、米兵たちが空に飛ぶのを見ると、つい喝采を叫んでいたが、敵とはいえ尊い人命が散華していたことに気付かなかった」と記している[3]

しかし、サンマヌエル、ムニオス、サンイシドロで繰り広げられた戦闘により、戦車第6第7第10連隊を基幹とする戦車第2師団主力は1月中には壊滅状態となった。戦車部隊の壊滅を受けて機動砲兵第2連隊のホニI4輌はサンタフェへ後退した。ここでの機動砲兵第2連隊はイムガン峠に壕を設営し、日没後にイムガン峠の射撃陣地へ進出すると、そこからサラクサク峠に展開する米軍を砲撃、払暁にサンタフェへ後退する戦術をとった。イムガン峠の道が米軍の砲撃により破壊されると、機動砲兵第2連隊はアリタオの密林に陣を設営、サンタフェに射撃陣地を構築し夜間砲撃を行った。この砲撃を阻止するために、米軍は戦爆各1個連隊級の航空機を投入、連日捜索に当たったが発見することはできなかった。機動砲兵第2連隊が夜間に後方陣地へ後退していたためである。また移動に際し4両のホニIは樹枝を牽引、履帯の走行痕跡を隠した。戦後米軍はこの運用を賞賛している。

3月31日の制圧射撃では15cm榴弾砲3門、機動九〇式野砲2門、ホニI4輌が参加、一千発の砲弾を撃ち込んだ。この砲撃と歩兵の夜襲によって、米軍第32師団はサラクサク峠前面の天王山から退却を余儀なくされた。

寡兵で戦闘を続けていた戦車第2師団であるが、4月18日に陣地偵察を行っていた松岡連隊長が負傷、後に戦死。25日には寺尾大隊長が戦死した。さらに26日、ボネに配置されていたホニI2輌が敵機に発見された。砲爆撃を受けて渡辺中隊長ほか数十名が戦死、横穴壕が崩され、1輌が埋没した[4]

残余のホニIは戦車撃滅隊に配属された。5月28日、大隊副官を務める小牧少尉以下の2輌はアリタオ付近で砲爆撃を受け、大破炎上した。天城大尉の指揮する最後のホニIは6月3日、バンバン南方にあるジャンクションで撃破された。機動砲兵第2連隊は、敵の圧倒的優勢と制空権の喪失という状況下において6カ月間、戦闘を継続した。連隊は1,279名から構成されていた。うち戦死1,087名、生還は192名、損耗率は約85%である。

現存車輛

アメリカ陸軍兵器博物館にフィリピンで鹵獲された唯一現存するホニIが展示されている。

脚注

  1. 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」p489。
  2. "Japanese Tank and AntiTank Warfare" http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/wwIIspec/number34.pdf
  3. 鈴木「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識」80-81頁
  4. 現在アバディーンに展示されているホニIは、米軍がこれを発掘・鹵獲したものである。

参考文献

  • 鈴木邦宏「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識」『Armour Modelling』5号、1997年、80-81頁。
  • 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」ISBN 978-4-7698-2697-2 光人社NF文庫、2011年

関連項目

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