ニホンハッカ
ニホンハッカ(日本薄荷、学名:Mentha canadensis var. piperascens シノニムも数種あり)は、日本在来のシソ科ハッカ属の多年草。国外では通称、ワシュハッカ(和種薄荷、Japanese peppermint)と呼ばれている。単にハッカ(薄荷)ということもある。ハーブの一種。
植物学上では、ヨウシュハッカ(M. arvensis)の変種扱いだったが、現在はシノニムとされる。ヨウシュハッカは北半球に広く分布し、日本にも帰化している。ニホンハッカは、ヨウシュハッカよりやや葉が長く、萼筒の裂片が鋭く尖っていることから区別される。
メントールの利用
水蒸気蒸留によって薄荷油を抽出し、さらにこれを冷却して再結晶させハッカ脳と呼ばれる複合結晶(主成分はl-メントール)を得る原料に用いられる。これらは食品用、生活用品、タバコなどの香料として、また医薬品用(ハッカ油・ハッカ脳とも薬局方に収載されている医薬品である)としても用いられている。食品分野では、昔ながらの菓子、飴などの香料としての用途が代表的である。近年は化学工業的に合成されたメントールにシェアを奪われ、生産が減少している。
清涼感がするのは爽快な香りや、多く含まれているメントールの性質(体中にある冷たさを感じる受容体を刺激したり、常温で昇華するため気化熱を奪ったりする)によるもの。
生産の歴史
日本では、換金作物として、安政年間に岡山県や広島県で栽培が始まった。明治初期にかけ主産地が山形県に移ったあと、移住者によって北海道で生産が始まった。1890年代には、旭川市で山形出身の石山伝兵衛が、北見国湧別村四線(現・紋別郡湧別町)で会津若松にあった薬種商出身の渡部精司が、湧別村学田農場(のち遠軽村、現・紋別郡遠軽町)で山形出身の小山田利七が、それぞれ本格的なハッカ栽培を手がけた。
その後、野付牛屯田兵の伊東伝兵衛らが、屯田兵解隊前後の1902年、野付牛村(のち野付牛町、現・北見市)でハッカ栽培を開始。反収の高さから一般の開拓農家の注目を集め、網走管内一円で爆発的に作付面積が拡大した。
明治から大正期にかけては、国内外から集まった民間業者が生産農家を回って買い付ける取引形態が続いたが、投機的な取引が盛んで、業者と農家間のトラブルも頻発した。
昭和に入り、それまで取り扱っていた農産物の価格低下に直面した北海道信用購買販売組合聯合会(現・ホクレン農業協同組合連合会)が、ハッカの安定的な高値買い付けを求める農家の要望を受け、民間業者に代わって取引に進出した。
北聯は1932年、遠軽村に「北見薄荷工場」の建設を計画したが、工場用地寄付に応じる形で野付牛町に予定地を変更。翌年工場が完成した。操業5年目の1938年の同工場取卸油は、当時の世界の生産量の7割を占めるまでに至ったが、日中戦争の激化に伴う国の統制強化で、大規模な減反を余儀なくされ、一時生産が途絶えた。
戦後は、北見市を中心に23市町村の農家が薄荷耕作組合を結成。朝鮮戦争の影響で米国向けの需要が増え、1950年ごろから急速に作付面積が拡大した。1951年以降、収油量や芳香性の向上を目指し、北海道農業試験場遠軽試験地(遠軽町)で寒地品種8品種、岡山県農業試験場倉敷はっか分場(岡山県倉敷市)で暖地品種4品種が開発され、それぞれの地域で普及した。特に、「ほくと」は現在でも園芸店などで販売されている。
やがてインドやブラジル産の安価なハッカに押されて国内の生産は衰退。1960年代以降の合成ハッカ登場、1971年のハッカ輸入自由化でほぼ消滅した。ホクレン北見薄荷工場も1983年のハッカ輸入関税引き下げのあおりを受け、同年閉鎖した。
網走管内では紋別郡滝上町札久留地区などで現在も数軒の農家が生産を続けている。
北見市は北見薄荷工場の旧事務所を北見ハッカ記念館として改装し保存しているほか、同市仁頃地区にハッカ畑を設けた「ハッカ公園」を造成。公園産ハッカを原料とした製品づくりにも取り組んでいる。公園内には昭和初期にハッカで大財産を成した商人、五十嵐弥一の邸宅「ハッカ御殿」を移設し、一刀彫の豪華な欄間などの贅沢さで当時の隆盛を今に伝えている。
このほか、網走管内各地の郷土資料館で、それぞれの地域で使われたハッカ蒸留釜などの資料を見ることができる。
脚注
関連項目
外部リンク
- 薄荷の歴史 日本薄荷
- 日本薄荷(ニホンハッカ)
- ハッカ(薄荷) 江戸時代の植物図鑑(長野電波技術研究所)
- 和薄荷について