チェーザレ・ロンブローゾ
チェーザレ・ロンブローゾ(テンプレート:Lang-it-short、 1835年11月6日 - 1909年10月19日)は、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。犯罪学の父とも呼ばれることがある[1]。ノーベル生理学・医学賞を受賞したカミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi)の指導教官でもある。
生涯
パドヴァ大学やウィーン大学、パリ大学で学び、最終的にトリノ大学を卒業。この間、薬学やヘブライ語、アラム語、中国語を習得。
- 1859年、軍医としてイタリア統一戦争に従軍。
- 1862年、パヴィア大学の精神医学の教授に就任。
- 1870年4月10日にニナ・デ・ベネデッティ(Nina De Benedetti)と結婚。彼女との間に5人の子を儲けた。
- 1876年、トリノ大学に籍を移し、精神医学や法医学、犯罪人類学を教えた。
- 1909年10月19日、トリノで死去。
生来的犯罪人説
ロンブローゾが行った研究のうち最も著名な成果は、1876年に上梓された『犯罪人論(L'uomo delinquente)』である。全3巻、約1,900ページにも及ぶこの大著において、彼は犯罪に及ぼす遺伝的要素の影響を指摘した。
かねてより「天賦の才能」についての研究を行い、『天才と狂気(Genio e follia、1864年)』などの著作を世に問うていたロンブローゾは、骨相学、観相学、人類学、遺伝学、統計学、社会学などの手法を動員し、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を検証した。彼は処刑された囚人の遺体を解剖、頭蓋骨の大きさや形状を丹念に観察した。解剖された頭蓋骨は383個にのぼる。また、刑務所や精神病院で3,839人の受刑者の容貌や骨格を、兵士のそれと比較した。こうした多大な労力を費やした末に、彼は「犯罪者には一定の身体的・精神的特徴(Stigmata)が認められる」との調査結果を得た。
ロンブローゾは身体的特徴として「大きな眼窩」「高い頬骨」など18項目を、また精神的特徴として「痛覚の鈍麻」「(犯罪人特有の心理の表象としての)刺青」「強い自己顕示欲」などを列挙した。彼によれば、これらの特徴は人類よりもむしろ類人猿において多くみられるものであり、人類学的にみれば、原始人の遺伝的特徴が隔世遺伝(atavism)によって再現した、いわゆる先祖返りと説明することができる。また、精神医学的見地からは悖徳狂と、病理学的見地からは癲癇症と診断される。そしてこれらの特徴をもって生まれた者は、文明社会に適応することができず犯罪に手を染めやすい、即ち将来犯罪者となることを先天的に宿命付けられた存在であると結論付けた。これが「生来的(生来性)犯罪人説」である。こうした彼の立論の背景には、当時流行していた ダーウィニズムへの傾倒があった。発表当初は、犯罪者の約70%が生来的犯罪人であるとしたが、のちにその数値を約35 - 40%に下方修正した。
なお、学術用語としての「犯罪者」は、法律上の罪を犯した者を指す法学的・社会学的概念であり、「犯罪人」は、法律上の罪を犯したか否かに関わらず、その素質(即ち上記のような身体的・精神的特徴)を有する者を指す生物学的概念である。
評価
顔面の非対称な犯罪者とヒラメとの類似性を指摘したりするロンブローゾの理論には、発表当初から批判の声が多かった。
1885年、ロンブローゾはエンリコ・フェリ(Enrico Ferri)、ラファエレ・ガロファロ(Raffaele Garofalo)らと共に「国際犯罪人類学会」を創設。彼らを中心として、刑法学における「イタリア学派」が誕生した。これに対し、 ガブリエル・タルド(Gabriel Tarde)やアレクサンドル・ラカサーニュ(Alexandre Lacassagne)などの、犯罪の原因を生育環境に求める「フランス環境学派」は、イタリア学派を激しく攻撃。同学会は大論争の舞台と化した。しかし 1913年、チャールズ・ゴーリング(Charles Goring)が『イギリスの受刑者―統計的研究(The English Convict, A Statistical Study)』において、「精密な測定を行った結果、犯罪者とそうでない者との間には有意な差は認められなかった」と発表するなど批判的意見が続出し、生来的犯罪人説は次第に退潮。現在では、この理論は極めて僅かな信奉者を除いては疑似科学として退けられている。しかし、主に哲学的な見地から考察されてきた従来の刑法学に実証主義的な手法を導入する大変革をもたらしたという意味においては、ロンブローゾの業績は高く評価されている。もっとも、ランベール・ケトレー(Lambert Adolphe Jacques Quételet)の犯罪統計学などの先例が既にあった。
影響
ロンブローゾは上述のフェリやガロファロのほか、作家・医師でシオニストのマックス・ノルダウ(Max Nordau)の思想に影響を及ぼし、「退廃芸術」排除論を用意した。また、ロンブローゾの理論はイタリア国内に留まらず、広くヨーロッパ諸国に伝播。各地で論争を巻き起こした。この争いの過程で、双生児や養子、染色体に関する調査を通して、犯罪に及ぼす遺伝と環境の相対的影響力の強弱を測る試みが数多くなされた。
イタリア史上初の女性医学博士マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori)はロンブローゾの下で学んだが、師と異なり素質よりも環境を重視した彼女は、「正常」と「逸脱」の概念を柱とする教育学を提唱した。
フィクションの世界においてもロンブローゾの影響は大きく、ブラム・ストーカーの代表作『ドラキュラ』には、主人公らがドラキュラ伯爵の異常性格を指摘する際にロンブローゾの名前が引き合いに出されている。
日本においては大正時代に犯罪学が流行。犯罪を専門に扱った雑誌が好評を博した。ロンブローゾの著作も紹介されるようになり、1914年に辻潤が邦訳した『天才論』は話題を呼んだ。文学においては、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』といった衒学趣味的小説にもロンブローゾの影響を見て取ることができる。小酒井不木も『科学探偵』の中で、犯罪者の人相に関するロンブローゾの学説を紹介している。
- アニメ『黄金バット』における敵役・ナゾーは、登場時などに「ローンブローゾー」と雄叫びをあげる。主人公の黄金バットの頭が髑髏(どくろ)であることを意識した演出であると思われるが詳細は不明。
その他の研究
- 1872年、北イタリアで流行していた皮膚病・ペラグラについて研究。農民階級の主食であったトウモロコシとの関連性を発見した。この時彼は、古くなったトウモロコシの変質による中毒であるとの説を発表したが、実際は食事の偏りによるナイアシン不足を主因とする疾患であった。
- ロンブローゾは心霊研究家(心霊主義)としての顔も持っていた。1891年、彼を含む6人の学者からなる委員会は、当時の著名な物理霊媒であったデルガイス夫人ことパラディーノ(Eusapia Palladino)がミラノで開催した交霊会に立ち会って調査を行い、彼女が起こした心霊現象について「真実である」と判断した。
- 1902年、人が嘘をつくと血圧や脈拍が変化することを発見。その原理を応用したプレチスモグラフ(ポリグラフの原型)を犯罪捜査に使用した。
言葉
- 『犯罪人論』には犯罪者の身体的特徴の実例が多数記載されていたが、その中には「禿頭」という項目はなかった(ロンブローゾ自身が失念したと思われる)。ここから、「ハゲに悪人はいない」という俗説が生まれた。
- ロンブローゾは『天才論(L'uomo di Genio、1888年)』において、カエサルやムハンマド、ナポレオンなど多くの著名人に癲癇の症状があったと指摘、天才と癲癇との関連性を説いた。「天才と狂人は紙一重」という言葉はここから生まれたものである。テンプレート:要出典
参考
- ↑ 「犯罪学」という名称自体は同じイタリア学派のラファエレ・ガロファロが始めた
関連書籍
- ピエール・ダルモン『医者と殺人者―ロンブローゾと生来性犯罪者伝説』鈴木秀治訳、新評論、1992年5月、ISBN 4-7948-0135-1
- 細江達郎『図解雑学 犯罪心理学』ナツメ社、2001年、ISBN 4-8163-2964-1
関連項目
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