ジャン・カルヴァン
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ジャン・カルヴァン(テンプレート:Lang-fr、1509年7月10日 - 1564年5月27日)は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者である[1]。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。
カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。
目次
生涯
フランス・ピカルディ地方のノワイヨン生まれ[1]。法律、神学を学び、人文主義的な教養を身に付けた[2]。ルキウス・アンナエウス・セネカの『寛容書簡(寛容について)』を翻訳し、1532年パリで刊行[1]。1533年頃に、突然の回心を経験したという。
1534年、パリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼルに亡命した[1]。
キリスト教綱要の出版
1536年3月、26歳のときにバーゼルで『キリスト教綱要』(初版本、ラテン語)[3]を刊行。この本は広く読まれ、その名を世に知られた[1]。カルヴァンは名高い論争家で、論敵との議論の必要性から『キリスト教綱要』も5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は初版本(1巻本)の数倍もの分量になった。1541年にはフランス語版が刊行された。
同じ1536年、旅行中に偶々滞在したスイスのジュネーヴ市で、牧師のギヨーム・ファレルに要請され、同市の宗教改革に協力する[4][1]。1538年、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、約半年間バーゼルに滞在したのち、ストラスブール(シュトラースブルク)に3年間滞在した。
神権政治
そして、1541年には、市民の懇請によってジュネーヴに戻る。以後30年近くにわたって、神権政治(または神政政治、セオクラシー)を行って同市の教会改革を強力に指導した[5]。ジュネーヴにおいてカルヴァンは厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい規律・戒規を求めた。
セルヴェートの処刑
1553年、カルヴァンの手の者によって異端者として告発された旅行中の神学者ミゲル・セルヴェートは、ジュネーヴ市当局によって生きながら火刑に処された(ただし、火刑はカルヴァンの意ではなかったというが、それでも彼は、セルヴェがジュネーヴに来れば生きて去らせることはしないと周囲に語っていた)。これに先立ってセルヴェの処遇を同盟諸都市に訊ねたジュネーヴ市は、全ての意見がカルヴァンと同意見であったため、これを境にジュネーヴ市におけるカルヴァンの地位はほぼ確定したものとなった。他方、この事件に対しては、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio) など反カトリック陣営がカルヴァンを非難した。
1555年にはカルヴァン派の市長が4人になった[1]。
死去
1564年5月27日、死去。没後1667年には著作全集がアムステルダムで刊行された[1]。
思想の影響
予定説
テンプレート:要出典範囲「予定」の項目が現われるのは『キリスト教綱要』第3版からである[1]。カルヴァンの中心思想を特定することは困難であるが、「神中心主義」などと表現されることが多くなった。
予定の教義は、カルヴァンの死後も後継者の手によって発展し、1619年、ドルト会議の「ドルト信仰基準」(ドルト信仰告白)などを経て、カルヴァンの死後約100年後のウェストミンスター教会会議(1643年7月1日 - 1649年2月22日)において採択された「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)によって現代見られるような形で一応完成した。それ以来、改革派神学者の保守的陣営において、19世紀の終わりまでは二重予定論に関して、ウェストミンスター信仰告白の枠組みを抜本的に変えることを迫るほど新しく有効な議論が起こされた形跡はない。
しかし20世紀に入ると、カール・バルトが主著『教会教義学』[6]等のなかでカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の二重予定説を強く批判したのを受けて、それまでは保守的陣営にとどまっていた改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めた。
とくに、アムステルダム自由大学神学部で長く教鞭をとった改革派教義学者ヘリット・コルネーリス・ベルカウワーによる再検討は、抜本的なものであった。ベルカウワーは、神の予定の二重性は「非均衡的」であること、つまり、選びと遺棄は同等の強調を置かれるべきではないこと、また、「キリストにある選び」(Election in Christ) という点、つまり、予定論のキリスト論的側面を強調することが重要であることなどを主張した[7]。
ただし、カール・バルト自身の予定論(恵みの選びの教説)の大意は「神の御子イエス・キリストが十字架において遺棄されることによって、万人が選びに定められた」ということであり、人間のなかに救いへと選ばれる者と遺棄される者がいるとするカルヴァンの予定論とは全く趣を異にするものである。
カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。テンプレート:要出典範囲
カルヴァン主義
カルヴァンは改革派教会、改革長老教会を方向づけ、多大な影響を残す巨星ではあるが、改革派的教義を掲げ、長老主義的教会政治を重んじる教会は、カルヴァンに始まるものでもカルヴァン個人の信仰理解に立つものでもない。保守的カルヴァン主義者として名高いオランダの改革派教義学者ヘルマン・バーフィンク(1854 - 1921年)でさえ、「改革派教義学はツヴィングリと共に始まった」[8]と書いている。
- とくに社会学や歴史学や政治学等の文脈で用いられる場合、カルヴァン主義、カルヴァン主義者という用語は予定論者とほとんど同義に用いられることがある。その代表的な例は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やエルンスト・トレルチの『キリスト教会ならびに諸集団の社会教説』である[9]。そして、その場合の「カルヴァン主義」とは、しばしば、カルヴァン本人の信仰理解とは必ずしも一致しているわけではないという意味で語られる。たとえば、トレルチにとっての「カルヴァン主義者」の最大のモデルは、主著『カルヴァン主義』[10]の著者、アブラハム・カイパー(1837 - 1920年)である。カイパーの立場は「新カルヴァン主義」(Neo Calvinism) などと呼ばれ、カルヴァン自身の立場とは区別される。しかし、カルヴァンとカルヴァン主義者を極度に対立的に扱うことに対して慎重であるべきとする有力な声もある(ポール・ヘルムら)[11]。
「カルヴァン派」という呼び方は、宗教改革初期における各都市の教会改革指導者の分類を必要とする、歴史的話題においては用いられる。具体的には「改革派」として「ツヴィングリ派」と統合される以前には確かに「カルヴァン派」といえる勢力が存在し、「急進派」とも「ルター派」とも異なる思想や方針を持っていた。
現在「カルヴァン主義」もしくは「カルヴァン派」という言葉を教団名に冠する例は知られていない。神学校の名称としては、北米キリスト改革派教会 (Christian Reformed Church in North America) が経営するカルヴァン神学校が米国ミシガン州グランドラピッズにあり、欧米のカルヴァンならびに改革派神学の研究の一大拠点になっている。
批判
1553年のセルヴェートの処刑について、宗教的不寛容ないし裁きを神にゆだねなかったという意味で、カルヴァン生涯最大の汚点という論者も絶えない。亡命ユダヤ人シュテファン・ツヴァイクはカステリオンとカルヴァンの対決を扱った評伝『権力と戦う良心』[12] で、カルヴァンと当時のジュネーヴ市をヒトラーとナチス治下のベルリンになぞらえて、カルヴァンを絶対的な権力を振るう人物として描いている[1]。日本の渡辺一夫も本来手段であった権力を全面的に追求することになったと評価し、大江健三郎もこれに賛同している[1]。
また、ジュネーヴの近くにあるセルヴェが火刑で苦しんだ教会には「当時の誤謬は非難されるべきにもかかわらず、わたしたちの偉大なる改革者であるカルヴァンの従順で誠意ある後継者として、良心の自由に堅く立つ者として、また宗教改革と福音の真の理念に従って、われわれは、ここに贖罪の碑を建て続けるものである。1903年10月27日」と銘文の刻まれた贖罪の碑が建てられている。
著作
主著は『キリスト教綱要』。
- 中山昌樹訳、新生堂、1934-1939年
- 『キリスト教綱要』(底本は最終版の第5版)、渡辺信夫訳、新教出版社,1962年、改訳2007年
- 「キリスト教綱要(初版)」久米あつみ訳、『宗教改革著作集』第9巻、教文館、1986年
- 聖書注解
ほかに多くの聖書注解(旧約・新約)を残した。
- 『旧約聖書註解』・『新約聖書註解』、新教出版社。
- 『神学論文集』、赤木善光訳、新教出版社。
- 説教集
また、多くの説教集も出版された。日本語で読めるカルヴァンの説教集には、以下のようなものがある。
- 『苦難と栄光の主 イザヤ書53章による説教』、渡辺信夫訳、新教出版社、1958年。
- 『霊性の飢餓 まことの充足を求めて』、野村信訳、教文館、2001年。
- 『命の登録台帳 エフェソ書第1章(上)』、アジア・カルヴァン学会編訳、キリスト新聞社、2006年。
- 『ジュネーヴ教会信仰問答 翻訳・解題・釈義・関連資料』、渡辺信夫訳、教文館、1998年。
脚注
参考文献
伝記
カルヴァンの伝記は多くの人々の手で書かれた。日本語で読める代表的なものとしては、以下のようなものがある。
- 『ジョン・カルヴヰンの伝』松永文雄著 警醒社 1909年
- J. D. ベノア著『ジャン・カルヴァン』、森井真訳、日本基督教団出版部、1955年。
- 小平尚道著『カルヴィン』、日本基督教団出版部、1963年。
- 渡辺信夫著『カルヴァン』、清水書院、1968年。
- R. ストーフェール著『人間カルヴァン』、森川甫訳、すぐ書房、1977年。
- E. ドゥーメルグ著『カルヴァンの人と神学』、益田健次訳、新教出版社、1977年。
- 久米あつみ著『カルヴァン』、講談社、1980年。
- 森井真著『ジャン・カルヴァン ある運命』、2005年。
- B. コットレ著『カルヴァン 歴史を生きた改革者 1509 - 1564』出村彰訳、新教出版社、2008年。
- 『ジャン・カルヴァンの生涯』アリスター・マクグラス キリスト新聞社
研究
- W. ニーゼル著『カルヴァンの神学』、渡辺信夫訳、新教出版社、1960年。
- E. W. モンター著『カルヴァン時代のジュネーヴ 宗教改革と都市国家』、中村賢二郎・砂原教男訳、ヨルダン社、1978年。
- 出村彰著『スイス宗教改革史研究』、日本基督教団出版局、1983年(再版)。
- A. カイパー著『カルヴィニズム』、鈴木好行訳、聖山社、1988年。
- H. E. テート著『ハイデルベルクにおけるウェーバーとトレルチ』、宮田光雄・石原博訳、創文社、1988年
- P. ヘルム著『カルヴァンとカルヴァン主義者たち』、松谷好明訳、聖学院大学出版会、2003年。
- 柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(一)」法学会雑誌 49(2), 2009, 首都大学東京
- 柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(二・完)」法学会雑誌 50(1), 2009, 首都大学東京
関連項目
外部リンク
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(一)」法学会雑誌 49(2), 2009, 首都大学東京
- ↑ 久米あつみ著『カルヴァンとユマニスム』、御茶ノ水書房、1997年。
- ↑ J. カルヴァン著「キリスト教綱要(初版)」、久米あつみ訳、『宗教改革著作集』第9巻、教文館、1986年。
- ↑ 田上雅徳著『初期カルヴァンの政治思想』、新教出版社、1999年。
- ↑ E. W. モンター著『カルヴァン時代のジュネーヴ 宗教改革と都市国家』、中村賢二郎・砂原教男訳、ヨルダン社、1978年。
- ↑ K. バルト著『教会教義学』、新教出版社。バルトがカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の予定論を批判したのは、同書の第2巻第2分冊(吉永正義訳)。
- ↑ G. C. Berkouwer, Divine Election, Studies in Dogmatics, Eng. Tras. by H. Bekker, 1960.
- ↑ Herman Bavinck, Gereformeerde Dogmatiek, Eerste deel, Uitgave van J. H. Kok te Kampen, Vierde Onveranderde Druk, 1928, p. 152.
- ↑ H. E. テート著『ハイデルベルクにおけるウェーバーとトレルチ』、宮田光雄・石原博訳、創文社、1988年。ヴェーバーとトレルチ、また加えて法制史研究者ゲオルク・イェリネックの三者は、同じ時代にハイデルベルク大学で教鞭をとり、共同研究会を開いていた仲間である。
- ↑ A. カイパー著『カルヴィニズム』、鈴木好行訳、聖山社、1988年。
- ↑ P. ヘルム著『カルヴァンとカルヴァン主義者たち』、松谷好明訳、聖学院大学出版会、2003年。
- ↑ S. ツヴァイク著『権力とたたかう良心』、ツヴァイク全集17、高杉一郎訳、みすず書房、1988年。