シュナイダー・トロフィー・レース
シュナイダー・トロフィー・レース(The Schneider Trophy)は1913年から1931年まで行われた水上機のスピードレースである。
概要
正式名称は"Coupe d'Aviation Maritime Jacques Schneider"(クプ・ダヴィアシオン・マリティム・ジャック・シュナイダー)。フランスの富豪、ジャック・シュナイダー(Jacques Schneider)は、世界の各都市を結ぶ航空機の主流は、広大な滑走路を使用せずとも湖水や河川から離発着できる水上機であると考え、航空技術の発達のため、水上機のスピードレースを主催した。
当時の航空機は機速を落とし離着陸距離を短縮するフラップなどの高揚力装置を持たず、高速機であるほど長距離の滑走路が必要であったため、陸上機では高速化に限界があった。一方、水上機は離着水に広大な水面が利用できたため制限があまりなく、空力的には不利な艇体またはフロートを持った水上機のほうが、むしろ高速化を追求できた。したがってシュナイダー・トロフィーは水上機限定のレースではあったが、ほぼ当時の航空機の「世界最速」を決定するレースでもあった。
優勝した国が次の大会を開催し、5年の間に3回優勝した時点でレースを終了し、トロフィーはその優勝国が永久に保有するとされた。レースは設定された水上の3点上空を通過周回するルールとされ、最初280km、後に350kmの三角形のコースの速度で競われた。
当初は先進航空技術国であったフランス、イギリス、イタリア間で争われ、その後、第一次世界大戦の特需で得た莫大な富を背景に技術力を着けたアメリカが参戦、またフランスは脱落した。初期のシュナイダー・トロフィーは、軍関係者の注目を集めていたものの、あくまで個々の飛行機メーカーの競争であった。しかし1923年のアメリカの参戦から、レースは次第に各国の威信を賭けたものへと様相を変えていく。
いくつかの大会では観客動員が20万人を超えるほど親しまれており、特に最後となった1931年の大会では、50万人もの観客が詰めかけるほどの巨大イベントとなっていた。
現在トロフィーは、ロンドンのサイエンス・ミュージアム3階の航空機の間に展示されている。
歴史
第一回大会は1913年に開始されたが、レースが本格化したのは第一次世界大戦後の1919年からである。
第一次大戦後すぐにイタリアが3回連続優勝を達成した。しかし、他の国の態勢が不十分であったり、各国が十分に戦い尽くせてのものではなかったため、イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄した。
1923年、アメリカが軍を挙げて参戦し、カーチス CR-3により優勝を勝ち取る。当初はアメリカの姿勢には批判もあったものの、以降、レースは航空機メーカー同士の競争から、各国の威信を賭けたものへと性格を変えていった。
1924年、アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場。イギリス機も予選でクラッシュしてしまった為、アメリカはスポーツマンシップにより開催の延期を申し出た。
翌1925年、満を持して望んだイタリア、イギリス両国であったが、数々の飛行機速度記録を作ったパイロットジミー・ドーリットルの手腕もあり、再びアメリカのカーチス R3C-2が優勝、トロフィーの永久保持まであと一勝と迫る。
1926年、アメリカは軍が手を引いたものの、搭載エンジンをパッカード製V型12気筒700馬力に強化したカーチス R3C-2が3度目の優勝を達成するものと思われていた。一方、イタリアのマッキ、イギリスのミッチェルは予算、時間、不足で勝てないだろうと予測されていた。ところが、イタリアでは国民の盛り上がりにより、ファシスト党のベニート・ムッソリーニ自らが「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」と宣し、国家的プロジェクトを結成してマッキ社を支援する。果たして、空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディが操縦する、フィアット製V型12気筒800馬力の新型エンジンを搭載するマッキ M.39により、アメリカを打ち破った。この大会を最後にアメリカは参加を取りやめ、以降はイギリスとイタリアの一騎打ちとなる。
1927年、イギリスが、後に戦闘機スピットファイアを設計したことで知られるレジナルド・ジョセフ・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝。以降、より多くの開発期間をとれるよう隔年開催となる。
1929年、イギリスは、V型12気筒ロールス・ロイス製R型エンジンを搭載したS6で再び優勝。
1931年、2勝していたイギリスはS6を改良し、合成燃料などの工夫で出力を強化したR型エンジンを搭載したスーパーマリンS6Bで参戦。実は、1931年1月、王立航空クラブ(Royal Aero Club 、略称RAeC )は王室空軍や英国政府に資金要請をするも却下されていた。しかし国民世論の高まりにより船舶業有力者の未亡人レディ・ホウストンが10万ポンドをスーパーマリン社に寄付した上に、タイムズ紙で「請求書はすべて私のところに持ってきなさい」と訴える。これによりメディアが国民側に立った。対するイタリア側は二重反転プロペラを装備し世界最速を謳っていたマッキ M.C.72で参戦。しかし、M.C.72はエンジン調整に手間取り、参加できず、結果、英空軍中尉J.N.ブースマンが操縦するスーパーマリンS6Bが優勝。これによりイギリスが3大会連続優勝し、シュナイダートロフィーを獲得することとなった。この最後の大会には実に50万人の観客が詰め掛けた。主催者であったシュナイダーは、その後の戦争で資産を失い、貧困のうちに死去している。
優勝機一覧
開催年 | 開催地 | 優勝機 | 優勝国 | パイロット | 速度(km/h) |
---|---|---|---|---|---|
1913 | モナコ | ドゥペルデュサン | フランス | モーリス・プレヴォ | 73.56 |
1914 | モナコ | ソッピース タブロイド | UK | ハワード・ピクストン | 139.74 |
1915-1918 | 第一次世界大戦のため中断 | ||||
1919 | ボーンマス(英) | 霧条件の中イタリアのG.ジャンネロが乗るサヴォイア S.13が優勝したが、後、自ら辞退したためレース自体が無効とされた | |||
1920 | ヴェネツィア (イタリア) |
サボイア S.12bis | イタリア | ルイージ・ボローニャ | 170.54 |
1921 | ヴェネツィア | マッキ M.7bis | イタリア | ジョヴアンニ・ド・ブリガンティ | 189.66 |
1922 | ナポリ | スーパーマリン シーライオンII | UK | アンリ・バード | 234.51 |
1923 | カウズ(UK) | カーチス CR-3 | アメリカ | ディビッド・リッテンハウス | 285.29 |
1924 | US | 米に対抗できず仏伊は欠場、英は予選でクラッシュしたため延期 | |||
1925 | ボルティモア(US) | カーチス R3C-2 | アメリカ | ジミー・ドーリットル | 374.28 |
1926 | ハンプトン・ローズ | マッキ M.39 | イタリア | マリオ・ベルナルディ | 396.69 |
1927 | ヴェネツィア | スーパーマリン S.5 | UK | シドニー・ウェブスター | 453.28 |
以降隔年開催 | |||||
1929 | Calshot Spit, UK | スーパーマリン S.6 | UK | ヘンリー・ワグホーン | 528.89 |
1931 | Calshot Spit, UK | スーパーマリン S.6B | UK | ジョン N. ブースマン | 547.31 |
トリビア
日本でも航空雑誌がその様子を記述していたほか「子供の科学」でも記述され、子供たちに夢を与えた。これらを読んだ後、日本の航空産業を担った航空技術者も多い。
現在のF1レースなどで一般的なオクタン価を高めた燃料や過給エンジンは、シュナイダー・トロフィーにおける技術競争の過程で開発が進められたものである。シュナイダー・トロフィーにおける過給エンジンは、海面高度での出力増加を図るものであったが、後に過給機は、高高度での性能維持に欠かせない補機となった。
復活
1981年、英国王立航空クラブの主催でシュナイダー・トロフィー・レースは復活した。往時とはレギュレーションが大きく異なり、出場できる機体は、直線水平飛行で時速100マイル(160km/h)を維持することができる陸上用プロペラ機に限られている。
また、トロフィーはオリジナルと同寸のレプリカが使われている。
関連項目
外部リンク
- "Schneider Contest 1931" (Course layout and general regulations)Flight the Aircraft Engineer and Airships, No. 1181, Vol. XXIII, No. 33, 14 August 1931.
- Schneider Trophy web site
- Royal Air Force official web page on the Schneider Trophy
- SPEEDBIRDS Graphics study on the Schneider Trophy planesテンプレート:Aviation-stub