ゲンナジー・ブルブリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 ゲンナジー・エドゥアルドヴィチ・ブルブリスГеннадий Эдуардович Бурбулис, Gennadii Eduardovich Burbulis, 1945年8月4日 - )はロシア政治家エリツィン時代前期の国務長官。同郷のエリツィンの側近として権勢を振るい「灰色の枢機卿の異名を取った。ドイツ語に堪能である。

1945年8月4日ソビエト連邦ロシア連邦共和国スヴェルドロフスク州ペルヴォウラリスク市生まれ。ロシア人であるが、「ブルブリス」というリトアニア系の苗字は、第一次世界大戦の時に祖父がリトアニアからウラルに移住したことに由来するという。

1962年から地元のペルヴォウラリスク市で電気工として働き、兵役を終えた後、スヴェルドロフスク市(現在のエカテリンブルク市)に移り、工場勤務。その後、ウラル大学哲学部に入学し、1974年同大学を卒業する。この間にソ連共産党に入党する。1981年哲学博士候補の学位を取得する。1982年からエリツィンの母校でもあるウラル工科大学(ウラル総合技術大学)で教職につき、同大学助手、助教授となる。

1987年ソ連最初の政治クラブ「討論の演壇」を創設する。1989年3月ソ連人民代議員に当選し、最高会議議員にも選出された。1990年ソ連共産党を離党。同年1月エリツィン・テンプレート:仮リンク議長全権代表兼直属調整顧問会議議長となり、エリツィン最側近となる。1991年6月のロシア大統領選挙では、エリツィン陣営の選挙参謀として、選挙運動を指揮した。かくてエリツィン大統領が誕生すると、国務長官(1991年~1992年「ロシア連邦国務長官」、1992年5~11月「ロシア連邦大統領直属国家評議会書記」を兼務)になる。1991年11月から第一副首相を兼任、エリツィン政権内のナンバーツーになる。1991年の12月7日から8日の両日ベロヴェーシの森の陰謀と呼ばれるエリツィン、クラフチュクウクライナ大統領、シュシケビッチベラルーシ最高会議議長のスラブ三首脳によるソ連解体の筋書きを作った張本人とされる。このような政界の黒幕的性格から「灰色の枢機卿」とあだ名される。

しかし、あまりにも辣腕家であったブルブリスは敵も多く、ショック療法で市場経済をしゃにむに導入しようとしたエゴール・ガイダルとともに反エリツィン陣営の攻撃の矢面に立たされた。1992年3月大統領直属顧問会議副議長。4月に第一副首相解任。5月に大統領直属国務長官となるが、11月26日大統領直属国務長官制が廃止となる。同日大統領首席顧問に就任するが、12月14日解任と、エリツィンと反エリツィン陣営の対立の狭間にあった。

1993年12月の下院国家会議選挙で急進改革派の政治ブロック「ロシアの選択」から比例区で下院議員に当選する。しかし4ヵ月後、「ロシアの選択」から離脱し、無所属となる。その後、シンクタンク「ロシア戦略財団」を創設し、総裁に就任する。1995年スヴェルドロフスク州ペルヴォウラリスク小選挙区から立候補し下院議員に再選された。2001年から上院連邦会議議員。