ウィレム2世 (オランダ王)
テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Commons&cat ウィレム2世(テンプレート:Lang-nl、ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク・ファン・オラニエ=ナッサウ、テンプレート:Lang-nl、1792年12月6日 - 1849年3月17日)は、第2代オランダ国王(在位:1840年10月7日 - 1849年3月17日)、ルクセンブルク大公(フランス語名ギヨーム2世、Guillaume II)。初代オランダ国王ウィレム1世の息子。妃はロシア皇帝パーヴェル1世の娘アンナ・パヴロヴナ。
生涯
1792年、ハーグでオランダ(ネーデルラント連邦共和国)総督ウィレム5世の孫として生を受ける。その後フランスの侵攻で一家揃ってイギリスへ亡命した。その後、イギリス軍に加わり初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーと共に半島戦争を戦った。1813年に父のウィレム1世が即位すると故国に戻った。ナポレオンがエルバ島を脱出するとイギリス軍に加わり第1軍団を指揮しカトル・ブラの戦い、ワーテルローの戦いに参戦し、負傷している[1]。オランダが新たに王国となり、父ウィレム1世が国王に即位すると、オラニエ公(以降は王太子の称号)となった。1840年、父の譲位により即位した。1848年には自由主義派の要求する、王権を制限する憲法改正を認め、翌1849年にティルブルフにて逝去した。
なお、日本に対しては、アヘン戦争後の1844年、開国を勧告する内容の国書を将軍徳川家慶に送るが翌年に江戸幕府から拒否された。
家族
1814年にイギリス王太子ジョージとキャロライン・オブ・ブランズウィックの間の一人娘であるシャーロット・オーガスタと婚約したが、キャロラインの反対により結婚にいたらず、婚約は解消された。
1816年2月21日、サンクトペテルブルクの冬宮殿の教会でアレクサンドル1世の妹アンナ・パヴロヴナと結婚した。2人の結婚により、オランダとロシア帝国の関係は良好なものとなった。2人の間には4男1女が生まれた。
- ウィレム3世(1817年 - 1890年)
- アレクサンダー(1818年 - 1848年)
- ヘンドリック(1820年 - 1879年)
- エルンスト・カシミール(1822年、生後5ヶ月で亡くなった)
- ソフィー(1824年 - 1897年) - ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アレクサンダーに嫁ぐ。
脚注
関連項目
テンプレート:ルクセンブルク大公- ↑ Hofschröer, Peter, 1815, The Waterloo Campaign, The German Victory p137, p200.