熱海温泉
熱海温泉(あたみおんせん)は、静岡県熱海市にある温泉である。日本の三大温泉場の一つとも言われるが、これには揺れがある。
泉質
- ナトリウム・カルシウム―塩化物・硫酸塩温泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)
- 毎分湧出量18,000L
- 無色透明の源泉
- 総源泉数500本以上
- 湧出温度98.2度の高温泉
海岸沿いは塩化物泉の源泉が多く、山沿いは硫酸塩泉の源泉が多い。古くは大半の源泉が硫酸塩泉であったが、ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、海沿いの源泉は、地下の線脈に海水の混入量が増えたため泉質が変わった。
温泉街
海沿いに旅館やホテルが立ち並ぶ。眺望を求めて山腹に立地するものもある。温泉街は山のすそ野にある駅近辺から海岸沿いまで広がる。国道135号沿いに尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一お宮の像がある。
共同湯
共同浴場は下記の8軒存在する。多くは鄙びた共同浴場であり、熱海の歓楽的雰囲気はない。このほか、外来入浴が可能な公衆浴場(ホテル旅館と兼業の物を含む)が多数存在する。
- 駅前温泉浴場
- 上宿新宿共同浴場(廃業)
- 清水町共同浴場
- 渚共同浴場(廃業)
- 水口共同浴場
- 水口第2共同浴場
- 山田湯
- 竹の沢共同浴場(2005年から外来入浴不可の会員制に)
熱海七湯
温泉街には、熱海七湯と呼ばれる、古くからの源泉が存在する。源泉は整備されているが、源泉の利用はホテル旅館等で使用されており、源泉にちなんだ共同浴場などはない(旅館ホテルの外来入浴のみ)。 熱海七湯は以下の7つの源泉である。
- 大湯
- 野中の湯
- 佐治郎の湯
- 風呂の湯
- 清左右衛門の湯
- 河原湯
- 小沢の湯
大湯間歇泉
大湯(大湯間歇泉)は世界の三大間欠泉とまで謡われていたが、現在は人口の間欠泉として整備されている。古くは自噴していたが、明治時代中期に自噴が止まった。その後、関東大震災の際に再び自噴が始まったが、昭和初期に再び自噴が止まった。その後、1962年(昭和37年)に人工の間欠泉として整備され、現在に至っている。
大湯間欠泉の傍には、日本最初の電話ボックスが再現されている。(現在の熱海ニューフジヤホテルアネックス館脇)。
また、外国人として記録に残る中で初めて富士山頂に達した、江戸末期頃の駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの記念碑と、彼の愛犬で同登山に同行し、帰路に寄った熱海のこの大湯間欠泉で大火傷を負い、同地で亡くなったスコッチテリアのトビーの墓所がある。大火傷を負ったトビーは地元の人々から手厚い看病を受けたが、その甲斐もなく亡くなってしまった。墓所は、これを悲しんだ地元の人々によって建立されることとなり、オールコックはこれに感謝したと伝わる。墓碑には「poor Toby(かわいそうなトビー)」と記されている。
歴史
熱海は歴史的にも古い温泉であり、およそ1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを近郷の者が発見、以来「熱い海」であることから、熱海と名付けられたとされる。また、天平宝字の頃に箱根権現の万巻上人が、この「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たちを救済すべく、祈願により源泉を海中から現在の山里に移したという伝説も残されている[1]。
江戸時代には徳川家康が来湯し、以来徳川家御用達の名湯として名を馳せ、家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。
明治以降は文人墨客が多く訪れ、また多くの作品がこの地を舞台に描かれた。代表的なものは、尾崎紅葉の「金色夜叉」であり、一躍熱海を全国区のものにした。他に、永井荷風の「冬の日」、林芙美子の「うず潮」などである。
昭和30年代は、新婚旅行のメッカで、白いドレスに白のスーツケースを持ったそれと分かるアベックで賑わった。高度経済成長期に入ると団体旅行を誘致するようになり、その客目当てのストリップ劇場や風俗店が増えた。これによるイメージの低下や、1964年には東海道新幹線が開通したことによって、東京と近隣からは容易に遠方の観光地へと出向けるようになったことも重なり、家族連れの客離れが進んだ。バブル経済以降は団体客が減り、休館する旅館が目立つようになり、町に寂れた印象を与え、更に客離れが進むという悪循環に陥った。現在は温泉ブームに乗って個人客は徐々に増えつつある。
2008年以降はガソリン高騰、都心からの交通網の豊富さ、猛暑に伴い手頃な温泉地、リゾートとして再び脚光を浴びるようになっている。
また、近年の新幹線通勤の広がりに伴い、高額所得者が熱海に温泉付の自宅を構えて都内へ新幹線で通勤するという光景も多く見られるようになっている。
歓楽街の代名詞
かつて熱海温泉が日本を代表する歓楽温泉として栄華を誇ったことから、歓楽街として発展した一部の温泉を「○○の熱海」と宣伝していたことがある。
これらの温泉街も熱海温泉と同様に、バブル経済の崩壊、レジャーの多様化などの事情により客離れが進み、現状の温泉街を評して「かつて『○○の熱海』と呼ばれた××温泉は……」との文脈で語られる例も見られるようになった[2]。
その一方で、山陰の熱海を名乗る皆生温泉のように、否定的、消極的な意味を伴わず、普通に宣伝文句として用いている例もある。