麻布永坂町
テンプレート:Pathnav テンプレート:Infobox Settlement 麻布永坂町(あざぶながさかちょう)は東京都港区にある町名である。麻布地区総合支所管内にあたる区域の一つで、麻布狸穴町とともに区内で唯一の住居表示未実施地域である[1]。住居表示未実施のため、街区符号・住居番号はない。
概要
外苑東通りより古川(渋谷川)の谷へ向かう斜面に位置し、飯倉片町交差点と地下鉄麻布十番駅の中間にある。町域の大部分は住宅地となっており、著名人の邸宅などがある。また、麻布永坂町は古くから更科そばで有名であり、町内には更科そば本舗の布屋太兵衛がある。
歴史
1962年(昭和37年)以降、麻布永坂町の範囲は徐々に縮小している。
残された旧町名
住居表示に関する法律が成立した1962年(昭和37年)以降、港区においても新たな街画が設定されてそれまでの歴史ある町名が次々と消滅、1978年(昭和53年)には町名変更の実施率が97.4%に達していた[1]。この際に最後まで残ったのが麻布永坂町と麻布狸穴町であり、これら二町の名称は現在まで存続することとなった[1]。
これは、麻布狸穴町の住民であった世界経済調査会理事長・木内信胤が、「歴史的にも古く、価値のある町名はきちんと後世まで残すべき」と、住居表示の施行を強行する行政に対して異を唱え、脚本家・松山善三が中心となって、住民による反対運動が行われた結果である[1]。麻布永坂町では、ここに居を構えるブリヂストン創業者・石橋正二郎を始め、蕎麦屋・永坂更級の主人らも住居表示の実施に対して強固に異を唱えた[1]。
その後、2006年(平成18年)度末現在、港区は麻布永坂町という町名のまま住居表示を実施する意向を示していない。
沿革
- 1713年(正徳3年) - 麻布の低地より芝方面へ抜ける長い坂(永坂)にちなみ、麻布永坂町・飯倉永坂町と名づけられ町奉行の支配となる。
- 1868年(明治元年) - 東京府成立に伴い、麻布永坂町は東京府に所属する。
- 1869年(明治2年) - 隣接する飯倉永坂町と麻布永坂光照寺門前を合併する。
- 1878年(明治11年) - 麻布区成立に伴い、東京府麻布区麻布永坂町となる。
- 1889年(明治22年)5月1日 - 東京市成立に伴い、東京市麻布区麻布永坂町となる。
- 1911年(明治44年)5月1日 - 町名より「麻布」の冠称が省かれ、麻布区永坂町となる。
- 1947年(昭和22年)3月15日 - 麻布区が芝区・赤坂区と合併して新たに港区が成立。それに伴い町名に再び「麻布」の冠称がつき、東京都港区麻布永坂町となる。
- 1962年(昭和37年)7月1日実施の区画整理に伴い、同年9月30日付けで麻布永坂町の南の一部(東京都道319号環状三号線沿線など)が麻布狸穴町・麻布十番一丁目・東麻布三丁目に編入。
- 1967年(昭和42年)7月1日 1964年(昭和39年)度から実施され始めた新住居表示に伴い東京都道415号高輪麻布線以西が六本木五丁目に編入。
- 1976年(昭和51年)10月1日に北端のごく一部が麻布台三丁目に編入。
永坂
永坂(ながさか、長坂)は、麻布永坂町の町名の起源となった坂であり、港区麻布永坂町と六本木5丁目とのあいだを北から南に下る長い坂である[2]。
現在は飯倉片町交差点(外苑東通り)から麻布十番・一の橋交差点まで下る東京都道(東京都道415号高輪麻布線)となっており、道は首都高速都心環状線の高架橋に覆われてしまっている。坂の上、飯倉片町交差点手前には首都高速道路の飯倉出口がある。また、坂の途中の麻布永坂町には永坂更科がある。
永坂(長坂)の名称についてはこれまで、起因不明(『新撰東京名所図会』)、「長い坂だから。或いは、付近住人の名前から」(『新編江戸志』)、「長坂氏が居住していたためというのは付会(こじつけ)の説」(『麻布区史』)など、様々な解説がなされている[3]。
正岡子規には永坂を詠んだ俳句 「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」がある。
施設
参考資料
- 『まち探訪ガイドブック』 - 2007年度版、港区発行
脚注
外部リンク
- 麻布永坂町 麻布地区の旧町名由来(一の橋公園設置) 港区