高山友照

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テンプレート:基礎情報 武士 高山 友照[1] (たかやま ともてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将キリシタン大名

生涯

出自は摂津嶋下郡高山村(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)の土豪であった。大和国宇陀郡の沢城城主。勇猛で教養もあり、領民にも慕われ、誠実な武士の鑑として知られた。

はじめ松永久秀に仕えた。イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラを訪問することを知ったたちは領主の久秀に宣教師の追放を依頼した。久秀は宣教師と仏教についての知識のあるもので議論させた上で、なにか不審な点があれば追放しようと考え、清原枝賢に議論の相手をさせ、仏教に造詣の深い友照と結城忠正を討論の審査役とした。キリシタン側はヴィレラに代わってロレンソ了斎が議論を行ったが、議論の中で2人の審査役がキリスト教の教えに感化され、のちに友照はヴィレラを沢城に招いて嫡子の彦五郎(後の高山右近)をはじめとする家族とともに洗礼を受けた。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛し、高山親子は高槻城和田惟政の組下につけられた。ところが惟政は池田氏との争いで討死(白井河原の戦い)し、高槻城は若年だった惟政の子・惟長が引き継いだ。これを好機と見た高山親子は元亀4年(1573年)4月に惟長を追放し、高槻城主となった(摂津の実権を握りつつあった荒木村重の重臣に甥の中川清秀がいたこともあり、これらの承諾を得て追放劇は実現したと考えられる)。こうして摂津北辺の高槻周辺は高山親子の所領となった。友照が宣教師らの布教を保護したこともあり、高槻ではキリシタンが増加した。

天正6年(1578年)、荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、組下であった高山親子も高槻城に拠って信長に反抗した。これ以前に信長に反旗を翻すか否かの会議上において、友照の娘(右近の妹)と高山右近の息子を「謀反はするべきではない」という主張を通すために人質として荒木方に差し出したこと、信長が降伏しなければキリシタンを迫害すると通達したことなどにより、信長に降伏すべきとする右近派と、徹底抗戦するべきとする友照派が対立。キリシタンとしての心情と、人質を取られているという板挟みの中、結果として右近が単身城を出て降伏した。しかし荒木村重が逃亡すると、抗戦した友照は捕縛され、処刑されるところであったが、高山右近らの助命嘆願もあり越前国への追放された。越前では柴田勝家から客将として扱われ、建前上は幽閉の身であったが、相応の金子を与えられ自由に過ごしていたという。

信長死後は高山右近に従って各地を転々としていたようであるが、文禄4年(1595年)に京で熱心なキリシタンとしてその生涯を閉じた。

関連項目

脚注

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  1. 諱は「友照」で広く知られるが、発給文書等の裏付けはない。署名などは「高山飛騨守」としている。