山下太郎 (アラビア石油)
山下 太郎(やました たろう、明治22年(1889年)4月9日 - 昭和42年(1967年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」などと呼ばれた。
人物・生涯
秋田県平鹿郡大森町(現・横手市)に近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれる。太郎の祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となるが祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。小学校四年が終わると東京の実父母の元で慶應義塾普通部に通う。その後札幌農学校(現北海道大学)に入学、北海道に渡る。
又、その途上で、後に北海道教育大学及び帯広畜産大学の両大学の学長を務めた田所哲太郎と知り合い、親交を深めた。後年、田所のために、生物化学研究所の設立資金を1938年に寄付した。
1909年3月札幌農学校(現北海道大学)農芸学科を卒業。道産品のアメやバターの改良を手がけたりしながら、従兄の山下九助とともにオブラートを発明する。1914年にオブラートの特許を取得、山元オブラート株式会社を設立する。会社は好景気で黒字となるが、山下は海外貿易に意欲を示しその資金のため五千円で権利を売却する。
1916年結婚し、深川に「山下商店」を設立。1917年にロシアのウラジオストクで鮭缶の買い占めに成功するが、ロシア革命のあおりで地方新政権が船積みを許可せず、外務秘書官(当時)の松岡洋右の協力でようやく船積みの許可を得る。第一次世界大戦が勃発すると、ドイツから輸入していた硫安がストップしたため、アメリカからの輸入を試み成功、巨利を得る。
一方1918年に日本国内では米価が暴騰、米騒動が各地に発生したが、山下は外米の輸入に取り組み上海で江蘇米を調達する。しかしその契約を密輸だとして原則論を強硬に主張する有吉総領事の妨害で輸入は失敗に終わった。1920年には満鉄消費組合と五万石の納入契約を結ぶが、満鉄が契約を一方的に破棄し大損害を被る。また友人の渋沢正雄が一トン当たり1,075円で一万トンの鉄材購入契約を行ったが恐慌で一トン当たり75円に暴落、連帯責任者として大負債を負った。
1924年、満鉄が社宅建設管理契約を米の契約で損害を負わせた代償として山下と結ぶ。この契約を始めとして彼の事業網は日本国内はもとより満州、中国、朝鮮まで拡大した。しかしながら1945年の敗戦で在外資産はすべて没収された。
戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、1957年ペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得、1958年アラビア石油株式会社を創立する。サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、数多くのライバルの中からクウェートが日本に権利を与えたのは欧米諸国に対する民族意識があったと言われる。山下が苦心して採掘権を得、設立したアラビア石油は1960年1月31日に採油に漕ぎ付けた。
しかし、2000年2月27日にサウジアラビア側の採掘権、2003年1月4日にクウェート側の採掘権を失った。現在では小長啓一(元会長 現相談役、元通商産業事務次官)らの努力でその手に取り戻した。
山下太郎は心筋梗塞のため1967年78歳にて死去した。故郷の横手市大森町大慈寺に墓がある。従三位勲一等が追贈された。子息に、水野成夫の養子となった元アラビア石油会長の水野惣平や正木家の養子となった株式会社泰正社長の正木烝司がいる。弁護士で著名な正木ひろしとも縁戚である。