池田知正
池田 知正(いけだ ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。摂津国豊島郡の国人。池田長正の長男。弟に光重がいる。
別名は勝重(かつしげ)、重成(しげなり)。通称は久左衛門(きゅうざえもん)[1]で、テンプレート:要検証。
生涯
父・長正の死後、家督は池田勝正[2]が継いだが、元亀元年(1570年)、知正は三好三人衆と通じて織田信長を裏切り、池田家家臣の荒木村重と共に内紛を起こし当主であった勝正を追放し、家督を相続し摂津池田城主となり、元亀2年(1571年)には和田惟政を敗死させた(白井河原の戦い)。
以後、摂津国の領主として一時威を奮うが、天正元年(1573年)頃から15代将軍足利義昭と信長の仲が険悪となると、知正は細川藤孝の説得を振り切って義昭方に属した[3]ために没落。池田家は織田氏に寝返った荒木村重に乗っ取られ知正は摂津国を追放されるが、後に信長に降伏し村重の家臣となる[4](下克上)。
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。その後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。
11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束(講和)を荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わし、尼崎へ逃れた村重に代わって有岡城の城守をしていた[5]久左衛門は開城を決意、津田信澄(信長の甥)が接収部隊を率いて本丸に入城した。ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。
前述の講和条件を受け、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、有岡城に引き返しづらくなり窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった(久左衛門は淡路へ逃れたという[6])。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。
12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は テンプレート:Quotation と記されており、この中に知正(久左衛門)の妻子も含まれていた。
淡路へ逃れて以後の消息は分かっていないが、池田知正が歴史上に再登場するのは信長が1582年の本能寺の変で亡くなった後のことであり、信長の後継者となった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に仕えて摂津豊島郡2700石を与えられ、小牧・長久手の戦いや九州征伐に従軍した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小山評定より従い、戦後に5000石に加増された。
慶長9年(1604年)に死去。その跡を甥で養子の三九郎が継いだが、翌慶長10年(1605年)死去。代わって三九郎の父で知正の弟・光重が家督を継いだ。これにより摂津池田氏嫡流は光重の系統が継ぐこととなる。なお、庶流については池田氏没落後(戦国後期)に多くの庶流が各地に散らばって帰農しており、現在まで存続している家が多くある。
参考文献
脚注
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 親戚(池田正久の子)とされるが、知正の実の兄(異母兄)との説もある。但し年齢がかけ離れており、信憑性は薄い。
- ↑ 「細川文書」より。
- ↑ 知行は2780余石。村重が有岡城(伊丹城)を手に入れ居を移した後は知正が池田城主になったという話もある。
- ↑ この段階では家臣とは言え、元々村重の主君であったことから、村重より城守を任されていたものとみられる。
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