建部清庵
建部 清庵(たてべ せいあん、正徳2年7月11日(1712年8月12日) - 天明2年(1782年))は江戸時代中期の医者。陸奥国一関の地から杉田玄白と書簡を交わし、蘭学の発展に協力した。名は由正(よしまさ)。字は元策。
生涯
生い立ち
正徳2年川小路に生れ、享保15年(1730年)、19歳で仙台に遊学。4年後帰郷。その後江戸に出てオランダ医学を学ぶ。その際、蘭方医の家として有名な桂川家に入門を願ったが、当時桂川家は弟子をとらないことにしており認められなかった。帰郷後、37歳で元水の後を継ぐ。以来一関を出ることはなかったという。天明2年3月8日、71歳にて没。済世軒諦道清庵と謚された[1]。墓は一関の瑞雲寺[2]。
清庵の医術は絶妙を極め、生前から、
- 「一ノ関に過ぎたるものが二つあり。時の太鼓に建部清庵」
と歌われるほどだった[3]。なお時の太鼓というのは、御三家格の大名でないと認められない時の太鼓が、特別に一関藩に認められたことを指す。
杉田玄白との出会い
清庵はオランダ流の医術を行っていたが、その医学としての基礎がはっきりしないことに不満を持っていた。明和7年(1770年)閏6月18日、日頃の疑問を書簡にし、弟子の衣関甫軒にそれを託した。「江戸にオランダ流医学の偉い先生がいたら疑問を解いてほしい」ということで、特に相手を定めての書簡ではなかった。しかし、江戸の蘭方医も清庵の疑問を解くことはできず、書簡はむなしく一関に戻された。
衣関甫軒は再度江戸へ向かって、安永2年(1773年)の正月(あるいは前年の暮れ)、今度はしかるべき人物に書簡を届けることができた。『解体新書』の翻訳作業を行っていた杉田玄白である。
『解体新書』はそれまでの医書とはまったく違ったものであり、その出版には、玄白も不安を抱いていたらしい。そこへオランダ医学への情熱に満ちた書簡が届い た。玄白にとっては強力な味方を得た思いであっただろう。またそこに書かれている疑問はいずれも正鵠を得たものであり、清庵の見識に玄白は感動した。
急いで返書を書き、発行されたばかりの『解体約図』を添えて清庵へ送り届けた。一方、清庵は、返書と『解体約図』に感動し、「口開きて合わず、舌挙がりて下らず、頻りに感涙仕り…」というほどだった。以後、清庵と玄白は何度も手紙を交換し、堅く結びつくこととなる。
のちに、二人のあいだに交わされた手紙は、玄白の蘭学塾において初学者に対するオリエンテーションとして読まれた。寛政7年(1795年)、大槻玄沢、杉田伯玄らは最初の2往復を『和蘭医事問答』の題名で出版した[1]。
著作
『民間備荒録』
江戸時代の東北地方にはしばしば、冷害によって飢饉が起こり、多数の餓死者が出た。清庵はその惨状を眼にする。
ある日、友人の郷内勝清の家で、明の兪汝為の『荒政要覧』を見て、これをヒントに救荒書の編纂を思い立つ。宝暦5年(1755年)、『民間備荒録』上下2冊を発行した。上巻では、飢饉に備えて食用となる樹木を植え、食料を備蓄する方法を述べている。下巻では、具体的に草や木の葉を食べる方法、解毒法、応急手当法などを述べている。一関藩の奉行・代官を通じて、藩内の村々に配られたという。
印刷された救荒書としては早くに出たもの。何度か版を重ね、16年後の明和8年(1771年)には江戸で出版された。
『備荒草木図』
清庵は『民間備荒録』の続編として、その中の植物を図で記した『備荒草木図』を表そうとした。そのために、本職が本草学者である平賀源内にも、衣関甫軒を通じて質問したという。もしかすると、甫軒に玄白のことを知らせたのは源内かもしれない。
明和8年(1771年)にいちおう稿はできたが、刊行は天保4年(1833年)になる。その際、杉田伯玄などが協力した。
『民間備荒録』、『備荒草木図』で紹介されている草木は185種にのぼる。一関市の釣山公園内には、これらの植物を植えた「清庵野草園」がある。
家系
建部清庵と言えば、杉田玄白と書簡を交わした建部清庵由正が有名であるが、清庵の名跡は五代続いている。由正はそのうちの二代目にあたる。
初代建部清庵元水はもと江戸の人。陸奥地方に遊んだとき、岩谷堂(奥州市江刺区)に住んで町医師として慕われたが、たまたま仙台に向かう旅先の一関で一年余り滞在し施療した。藩主田村侯に聞こえ、懇望によって一関藩に仕えることとなった。元水の息子が二代清庵由正である。
由正の長男は早世。次男(三男の説あり)亮策が家督を継ぎ、三代清庵由水となる。なお由水は、同時期に杉田玄白に入門した大槻玄沢と終生親交を結んでいた。文政5年(1822年)、玄沢のために『重訂解体新書』の序文を書いている(刊行は文政9年)。玄沢は、おかげを被った人として、師である由正だけでなく同世代の由水の名も挙げている。
その後、四代清庵由章、五代清庵由道と続く。
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弟子たち・子供たち
安永7年(1778年)、清庵は玄白の天真楼塾に、次男の亮策と、秀才の弟子大槻茂質を送った。その後亮策は国元に帰り三代清庵由水となる。大槻茂質はのちに大槻玄沢と名乗り、蘭学塾芝蘭堂を開き、蘭学の発展に大いに貢献する。
玄白は晩婚であった。男子も産まれたが虚弱であり、養子を探していた。天明2年(1782年)5月15日、玄白の塾で学んでいた清庵の第五子(四男?)由甫を養嗣子に迎え、杉田伯玄とした。
同年、一関の地で、建部清庵由正没。いちど杉田玄白と会いたいと望みながら、それは叶わなかった。
寛政5年(1793年)、杉田伯玄は玄白の娘の扇と結婚する。やがて恭卿、白元らの子ができる。
清庵と玄白・源内とのあいだを取り持った弟子の衣関甫軒は、眼科として一家を構えた。その子である貫もまた眼科学の発展に貢献する。
脚注
参考文献
- 宮城県教育会編 『郷土人物伝』 宮城県教育会、1929年
- 田中喜多美ら編 『興亜の礎石 近世尊皇興亜先覚者列伝』 大政翼賛会岩手県支部、1944年
- 一関市博物館編集・発行 『一関市博物館第十九回企画展 建部清庵生誕三〇〇年記念 江戸時代の病と医療』、2012年9月