泰阜村
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泰阜村(やすおかむら)は、長野県下伊那郡の南部に位置する村である。
目次
地理
隣接している自治体
歴史
- 室町時代には知久氏の領地だった。
- 1555年に武田信玄が知久氏を滅ぼし、前澤若狭守の領地となった。
- 1872年(明治2年)2月 - 伊那県に編入。[1]
- 1871年(明治4年)6月 - 戸籍法が公布され、伊那県戸籍区の第十一区(金野村、平島田村、唐笠村、門島村、黒見村、万場村、平野村、明島村、田ノ口村、柿野村の十ヵ村)、第十三区(左京村、鍬不取村、打澤村、高町村、稲伏戸村、怒田村、南山村の七ヵ村)が設置された。戸籍区の成立によって従来の名主、庄屋及び年寄制は廃止され、戸長・副戸長制となる。
- 1872年(明治5年)4月 - 筑摩県の第一六五区(左京村外七ヵ村)、第一六六区(平島田村外九ヵ村)が設置された。
- 1872年(明治6年)3月 - 筑摩県の一六五区、一六六区、一六七区、一六八区、一七〇区、一七一区、一七二区と共に第二十二大区に編入され、第一六五区を第一小区に、第一六六区を第二小区となる。
- 1875年(明治8年)1月23日 - 伊那郡南山村・唐笠村・金野村・怒田村・左京村・平島田村・鍬不取村・平野村・田野口村・柿野村・明島村・門島村・打沢村・黒見村・高町村・稲伏戸村・万場村が合併して泰阜村となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 長野県の所属となる。
- 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法の施行により下伊那郡の所属となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により単独で自治体を形成。
- 1939年(昭和14年) - 満蒙開拓移民の分村が現地に成立。
歴代村長
代 | 氏名 | 選任年月日 | 退任年月日 |
---|---|---|---|
1 | 萬場芳衛
金野年穂 斯波甚三郎 吉沢藤蔵 |
1875年1月 | 1875年10月 |
2 | 金野年穂 | 1875年10月4日 | |
これより公選となる | |||
3 | 吉沢藤蔵 | 1879年7月1日 | 1879年12月 |
4 | 萬場芳衛 | 1880年1月 | 1883年3月 |
5 | 吉沢藤蔵 | 1883年3月 | 1883年12月 |
6 | 島岡米太郎 | 1884年1月 | 1885年3月 |
これより官選となる | |||
7 | 山口機三 | 1885年3月 | 1886年3月 |
8 | 大河内弥三郎 | 1886年3月 | 1887年1月 |
9 | 飯富安忠 | 1887年1月 | 1888年2月 |
10 | 田中正巳 | 1888年2月 | 1888年3月 |
11 | 熊谷正雄 | 1888年3月 | 1889年5月 |
行政
人口
交通
鉄道
バス
道路
- 村域を通過する国道はなく、通過する主要地方道と村道のみが存在する。
- 村内に信号機は1台も設置されていない。
- 県道
学校
- 全て村立。
- 泰阜小学校
- 泰阜中学校
- 2010年度までは南北に小学校が1つずつ存在したが、2011年4月に南北が統合し、泰阜小学校となった。現在は泰阜中学校と同敷地内に小学校が設立されている。
文化
その他
- 2003年(平成15年)9月26日に、当時の長野県知事である田中康夫(現新党日本衆議院議員)が住民登録をしたことで、全国的に知られるようになった(その後、田中康夫は2004年(平成16年)12月2日 に北佐久郡軽井沢町へ住民票を移転している)。
脚注
参考文献
- 『泰阜の地に生れ育てられて』 宮下明男著、1995年7月。