カーネーション革命
テンプレート:ページ番号 テンプレート:基礎情報 蜂起 カーネーション革命(カーネーションかくめい、テンプレート:Lang-pt)は、1974年にポルトガルで発生した軍事クーデター。同革命はヨーロッパで最も長い独裁体制をほとんど無血に終わらせた。カーネーションが革命のシンボルとなったので、このように呼ばれる。別名「4月25日(25 de Abril)」、「リスボンの春」。
背景
1933年に成立したアントニオ・サラザールによる独裁体制(エスタード・ノヴォ)は40年以上続いたが、1961年以来植民地のアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウではソビエト連邦・キューバに支援された独立革命軍との植民地戦争が続いていたため、1950年代から1960年代にかけて重工業化が推進されたのにもかかわらず、ポルトガルの経済は他のヨーロッパ諸国から立ち遅れた。
1968年にサラザールが病に倒れたが、マルセロ・カエターノが政権を引き継ぎ独裁体制は変らなかった。主としてポルトガル領ギニアで泥沼の植民地戦争に服務し、危機感を抱いた青年将校たちは、1973年9月に「大尉運動」を結成し、1974年3月に「テンプレート:仮リンク(MFA)」に改組され、テンプレート:仮リンク将軍を担いで体制変革をめざすようになった。
決起
1974年4月25日早朝テンプレート:仮リンク大尉に指揮されたリスボンのMFAは決起し、市内の要所を占拠した。共和国警備隊本部に包囲されたカエターノ首相は為す術もなく投降し、スピノラ将軍に権力を委譲した。流血はほとんどない無血革命だった。カエターノとトマス大統領は翌日の飛行機でマデイラ島に移された。MFAを中核とする救国軍事評議会が結成され、スピノラ将軍は近く臨時政府を組織すると発表した。革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓した。革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿した(現在ポルトガルでは4月25日は「自由の日」として国民の祝日となっている)。
クーデターの流れ
1974年5月15日、臨時政府が成立し、スピノラ将軍が臨時大統領に就任した。しかし実際に革命を主導したMFAとスピノラ大統領の溝が深まり、9月30日スピノラは大統領を辞任、テンプレート:仮リンク将軍が大統領に就任して中立的な政権運営を行った。
1975年3月11日権力を奪回しようとする保守派のスピノラ将軍はクーデターを起こしたが失敗、スペインに亡命した。直ちに共産党と結んだMFA左派の将校達によって革命評議会体制が確立され、臨時政府には社会党や共産党の人士も参加したが、主導権はMFAにあり、主要産業の国有化や農地改革など社会主義的な政策を取った。
1975年から1976年までの各派間の権力闘争は激烈を極め、当初はMFAを主導し共産党と結んだオテロや革命初期の首相テンプレート:仮リンク、そして共産党書記長のクニャルが主導権を握り、この時期に大資本の国有化や農地改革が行われたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になると社会党と共産党の対立が激化し、最終的に中道左派路線を掲げる社会党が勝利してMFA左派と共産党勢力は1975年11月までに追放された。1976年には総選挙と大統領直接選挙が実施され、MFA穏健派出身のアントニオ・エアネス大将が大統領に就任して革命はようやく終結した。
参考文献
- 市之瀬敦『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2000年12月。
- 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、2003年4月増補版。
- 野々山真輝帆『リスボンの春──ポルトガル現代史』朝日新聞〈朝日選書〉、1992年4月。