ヨーゼフ2世
テンプレート:基礎情報 君主 ヨーゼフ2世(Joseph II, 1741年3月13日 - 1790年2月20日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。全名はヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)。神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。
父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行う。啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物であった。その急進的改革ゆえ「民衆王」「皇帝革命家」などのあだ名がある。
生涯
オーストリア継承戦争時に長男として生まれたため、母マリア・テレジアから非常に愛される(ヨーゼフの前には3人女児が続いていた)。
1760年、同い年のパルマ公女(パルマ公フィリッポの娘)マリア・イサベラと結婚し、優美な彼女を熱愛するが、1763年にイサベラは天然痘に罹病し、第2子を早産(生後2時間で死亡)した末にあえなく世を去る。絶望したヨーゼフは彼女の面影を求め、イサベラの妹マリーア・ルイーザとの結婚を熱望する(ただし姉に似ず不美人だった)が、バイエルン選帝侯で皇帝でもあったカール7世の娘マリア・ヨーゼファと再婚した。しかしヨーゼファには見向きもせず、1767年にヨーゼファが死んだ後は独身を貫いた。
また、かつて母の婚約者候補だったプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し、その啓蒙主義に傾倒して母を悲しませる。1765年、父フランツ1世の死に伴い皇帝に選出された。1770年、亡きイザベラが産んだ長女のマリア・テレーゼが幼くして夭折した。
1772年、母マリア・テレジアの反対を押し切り、第1回ポーランド分割に加わる。1780年、マリア・テレジアの死により単独統治を開始すると、翌1781年に農奴解放令を発布した。また、宗教寛容令を発布して、ルター派、カルヴァン派、正教会の住民に公民権上の平等を認めた。一方で国内の多くの修道院を解散させ、その財産を国家が掌握することで財政を富ませた。その他に皇室の料地であったプラーター公園を一般市民に開放したり、ウィーン総合病院を開設するなどの政策を行った。
貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれた。1790年、フランス革命が激化する中で病で死去した。帝位は弟のレオポルト2世が継いだ。
人物
改革の多くが挫折に終わったことから、母マリア・テレジアと比べてヨーゼフは否定的な評価を受けやすい。プロイセン王フリードリヒ2世に「第一歩より先に第二歩を踏み出す」と揶揄され、またヨーゼフ自ら選んだ墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という皮肉なものである。しかしヨーゼフの提示した改革理念は、いわゆる「ヨーゼフ主義思想」として、その後のオーストリアにおける改革運動に影響を与えた。
また、文化の発展にも意を用い、特にイタリア人が占めていた音楽の分野では、ドイツ音楽を意識してモーツァルトを宮廷音楽家として雇っていたことでも知られる。映画『アマデウス』にも、モーツァルトの才能を認め、あるいは対立する姿が描かれている。しかし、かつて強引に謁見したレオポルトに反感を抱いていた母マリア・テレジアと宮廷から嫌われたことから、モーツァルトに与えられたのは冬の間舞踏会用の音楽を作曲する仕事のみで、しかも俸給は前任者の半額以下の800フローリンにすぎなかった。さらに、ヨーゼフが参戦した墺土戦争の影響でウィーンの景気が冷え込んだことがモーツァルトの経済状態を悪化させ、命を縮める要因となった。また、モーツァルトの葬儀が簡素に行われ、結果モーツァルトの遺体の所在が不明となったのはヨーゼフの葬儀簡素令のためである。このように、モーツァルトの生涯に明に暗に影響を与えたといえよう。
家族
- マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ:最初の皇后、パルマ公フィリッポの娘
- マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン:2度目の皇后、バイエルン選帝侯・神聖ローマ皇帝カール7世の娘
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